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『ノアの羅針盤』/アン・タイラー

ノアの羅針盤

ノアの羅針盤

アン・タイラーの作品で描かれるのは、ごく平凡でまじめで、ちょっぴり野暮ったくて、家族との関係において何らかのトラブルやフラストレーションを溜め込んでいる、そんな登場人物たちの人生の一シーンである。プロットには概して大きな起伏はなく、いわゆる"あらすじ"のインパクトというやつに関してはほとんど皆無と言ってしまっても間違いではないくらいだし、文章だって力の入ったところは少しもなく、ごく淡々としている。まあ、おもしろそうな小説、ってタイプではぜんぜんないのだ。

にも関わらず、彼女の小説の多くは、かなりのページターナーである。シンプルながらも適切な言葉によって構成された文体は小気味よく、読んでいて気持ちがいいし、人物たちの細々した描写は的確で、はっとするような新鮮さを持ち合わせてもいる。また、彼らの悩みや問題のしょうもなさをそっと見守るような、視線の暖かさとユーモアの感覚が作品の軸の部分に必ずある。こういった、地味だが重要な要素がそれぞれ高いレベルにあることで、読者は主人公たちの行く末を気にしないではいられなくなってしまうのだ。

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本作『ノアの羅針盤』のプロットにも、やはり派手さはない。主人公のリーアムは60歳の元教師。職場をリストラになったばかりの彼は、これを機会にシンプルライフに移行しようと、いままでのアパートを引き払い、小さな新居に引っ越してくる。これからゆっくり身辺を整理して、まったり老後を過ごそう…と穏やかな気分でベッドに入るも、まさにその夜、不法侵入してきた強盗に襲われ、意識を失ってしまう。大きな怪我もなく、すぐに日常に復帰するリーアムだが、襲われたときの記憶だけは何日経っても回復しない。それからしばらくして、リーアムは、ある会社の老会長の「記憶係」をしている、ユーニスという女性のことを知る。記憶をどうしても取り戻したいと願うリーアムはユーニスに急接近、やがてふたりは、お互いに好意を抱くようになるのだが…!

本作で扱われている最大のテーマは、記憶の問題だ。記憶力というやつは、年齢とともに誰しも衰えていくものだけれど、リーアムは強盗に襲われ頭を打ったことで、自分の記憶がどこかに消えてしまい、どうしても再現できない、というフラストレーションを一足早く体験することになる。だが、彼の、再現できない記憶への執着やいらだちは、周囲の人間にはほとんど理解されない。

「すみませんが、これ以上お力になれることはありません、ペニーウェルさん。ほんとうに私にできることは何もないんです。しかし、時間がたつうちに、たいしたことじゃないとわかってきますよ。しょうがないんですよ、みんな毎日、いろんなことを忘れていくんです。あなたも大量の記憶を失っているんですよ!でも、それをくよくよ悩んだりしないでしょ?」(p.69)

といった具合である。

すでに二度の結婚を経験し、現在は独り身となったリーアムにとって、過去の記憶の多くは、彼の周囲の女たちと結びついている。2人の元妻、姉、3人の娘たち。彼女らはいずれもリーアムについて大した関心も持っていないようだし、話をすれば、どういうわけか必ず機嫌を悪くして去っていってしまう。元来人づきあいや面倒ごとを好まないリーアムは、まあ仕方ないさ、とそんな現状を受け入れてしまっているようなところがある。

そんなリーアムが変わっていく契機は、失われた記憶をめぐるささやかな冒険における、いくつかの出会いのなかから見出される。ユーニスとの恋愛をはじめとするもろもろのできごとによって、彼は、いままで自分は自分の人生を本当に生きてはこなかったのではないか、自分はかつて知っていたはずの大切なことを忘れてしまっているのではないか、自分は娘たちともっと幸福な関係を築けたのではないか…と、少しずつかんがえるようになっていくのだ。

この"少しずつ"の感じが本作最大の美点だとおもう。これがリーアムが変わるきっかけですよ、っていう、あからさまな転換点、ターニングポイントがどこかで示されるわけではないのだけれども、物語を読み進めてきた読者には、それまでに書き込まれた細々した描写を通じて、ああ、リーアムはほんとにちょっとずつだけど変わってきてるんだな、方向転換し始めているんだな、ってことが自然と感じられるようになっている。ていねいな描写が作品のリアリティを強固なものにしているから、派手なできごとなんてなくても、物語がきちんとグルーヴし、登場人物が変化していくのが感じられるようになっているのだ。

そんな、ていねいで的確な描写のひとつの例として、「記憶係」ユーニスについて描かれた箇所を引用しておく。

それに比べて記憶係のほうは、しわくちゃで落ち着かなそうに見えた。炎天の太陽の下では、リーアムが最初に抱いた印象ほど若くはなかった。またそれほどプロフェッショナルにも見えなかった。車のドアを閉めようとしてハンドバッグの紐を引っかけたり、コープに付き添って階段をのぼりながらスカートの裾を踏んだりしていた。ゴム入りのウエストは片方があぶなっかしいほどずり落ちていた。彼女はもう一度それを引っぱり上げながら、あたりにちらっと目をやった。(p.103)

しかし、率直に言って、彼女はどうも、なんというか……運が悪いというか。ユーニスのような人たちは、どうすれば世間でうまくやっていけるかをよく知らないのだ。頭は申し分なくよさそうなのに、顔は染みができやすく、すぐ赤くなる。ハンドバッグのなかはまるで紙くず入れで、自分のスカートを踏んづけて歩く。(p.124)

まるで冴えない、ピリッとしない人物の描写ではあるけれど、リーアムの目を通して描かれる彼女のようすは、どこかユーモラスで、親しみが持てるものになっている。