- 作者:ポール オースター
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/05/01
- メディア: ハードカバー
オースターの2005年作。近年翻訳が出た、『幻影の書』や『オラクル・ナイト』といった作品と比べると、ケレン味やものものしさが軽減された作品で、オースターの軽妙なところ、ユーモラスなところをたのしむにはうってつけの一冊だと言えそうだ。扱われるモチーフにしても、孤独であること、嘘をつくこと、言葉遊び、贋作、偶然の必然性、書くことに対する信頼などなど、オースターの読者にとってはおなじみのものばかり。気楽に読んでいける。
オースターの小説の主人公は、作者の年齢とともに少しずつ年寄りになってきているけれど、本作の語り手はもうすぐ60歳、壮年期も終わりに差し掛かり、すでに仕事をリタイヤしたおっさんである。そんなおっさんが、オースターの小説の主人公らしく、延々と内省したり妄想したり、かとおもえば、悪ガキがかんがえるような突拍子もない計画をひねり出したり、セレンディピティに大興奮したり、誰にも止められないって勢いで饒舌にしゃべり出したりするわけだ。なんていうか、そういう設定だけで、すでにちょっとおもしろい。主人公の性格はたしかに60歳の男性らしいもの――頑固で皮肉屋、自分のやり方をいまさら大きく変えようなどとはなかなかおもわない――なのだけど、でも、オースターの文章、オースター的な感性っていうのはやっぱりどこか若者っぽい、青春小説風のところがあるのだ。
翌日の午後、昼食どきにふたたびトムと顔を合わせると、自分たちが小さなしきたりを打ちたてつつあることを私たち二人は了解した。はっきりそう言葉にしたわけではないが、ほかの予定や義務が生じないかぎり、極力二人で会って、昼の食事を共にするのだ。私がトムの二倍の年齢で、以前はナット伯父さんの名で通っていたことももはや関係ない。かつてオスカー・ワイルドが言ったとおり、二十五歳を過ぎたら誰もが同じ歳なのであり、実のところ、我々二人は現在の状況もほぼ同一なのだ。二人とも独り暮らしで、女性ともつき合っておらず、友だちも少ない(私の場合はゼロ)。独り身の単調さを破る上で、己の同類、似た者(サンブラブル)、長く離ればなれになっていたトマシーノと一緒にメシを食いつつ無駄口を叩きあう以上の方法があるだろうか?(p.83)
「二十五歳を過ぎたら誰もが同じ歳」とはよく言ったものだけど、まったく、いちいち多弁なのだ。
軽めの作品だと書いたけれど、やっぱりそこはオースター、影のなかから不意に姿を現す暴力や、身も蓋もないような悪意、信じられないほどの不運といった、この世界の不確かさ、不気味さについての描写を忘れることはない。本作のラストシーンでは、急に現実の2001年が小説内に入り込んできて、びっくりさせられたりもする(あまりにも唐突で、いったいこの記述をどう捉えればいいんだ!?っておもっているうちに、物語は終わってしまう)。
とはいえ、全体的な雰囲気としては、『スモーク』や「オーギーレンのクリスマス・ストーリー」のような、陽性の作品だと言えるだろう。登場人物やエピソードがとっ散らかっているような印象もあるけど、それこそが作品全体にオープンな感覚を与えるのに貢献している、ということもできるかとおもう。本作で俺がいちばん好きだった文章は、以下のところ。
喜びと幸福について語りたい。頭のなかの声が止んで、世界と一体になった気のする、稀な、予想しがたい瞬間について。
六月初旬の気候について語りたい。調和と、至福の休息について、緑の葉のあいだを飛びかうコマドリとキンノジコとルリツグミについて。
眠りの効能について、食べ物とアルコールの楽しみについて、二時の太陽の光のなかに歩み出て体が空気に暖かく抱擁されるのを感じるとき心に起こることについて語りたい。
トムとルーシーについて、スタンリー・チャウダーについて、私たちがチャウダー・インで過ごした四日間について、ヴァーモント南部の丘の上で私たちが思った思いと夢見た夢について語りたい。
空色の黄昏を私は思い出したい。気だるい薔薇色の夜明けを、夜に森の中で声を上げる熊を思い出したい。
すべてを私はおもい出したい。それが無理なら、その一部だけでも。いや、一部では足りない。ほとんどすべてを。ほとんどすべてを思い出したい。欠けた部分は一行空きのなかに読みとってほしい。(p.174)