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『サマータイム』/佐藤多佳子

サマータイム (新潮文庫)

サマータイム (新潮文庫)

いつもよりちょっと早起きした休みの日、薄曇りの空から落ちてくる太陽の光はやわらかく、風もおだやか、夕方まではとくにやらなきゃならないこともないし、仕事の電話が鳴る予定もない。うーん、こんないい感じの日には、何かすげーさわやかな小説とかを読みたいなー、なんてかんがえながら駅前の本屋をうろうろして、佐藤多佳子のデビュー作『サマータイム』を手に取ったのだったけれど、こいつはもうなんともきらきらとした、幼年期から思春期にかけての美しい感情ばかりがぎゅっと詰め込まれた、さわやかさ満点の作品で。ひさびさに良質な児童文学を読んだ感覚を味わえて、俺は大変満足したのだった。

「児童文学」というジャンルに含まれる作品のなかには、大人が読んでもじゅうぶんにおもしろいもの、むしろ大人になってから読んだほうがその旨味をじゅうぶんに味わえるもの、というのが少なからずある。本作もまさにそういうタイプで、ちょっと「大人向け」テイストが強めな(子供にとっては少し地味過ぎる)作品であるように感じられた。なにしろここには、いい歳になってしまった大人が児童文学に求めたくなるような要素、すなわち、大人が「子供」という存在に対して期待する、イノセンスや無防備さといったものがてんこ盛りになっているのだ。

本作は4つの短編から構成されているが、ストーリー的には、どれもお定まりの、どこかで聞いたことのあるような物語ばかりだと言っていい。たとえば、表題作「サマータイム」の主要な登場人物は、"美人で勝気な姉"と、"素直でやさしい弟"、"左腕のないちょっぴり大人びた少年"と、"彼の母親のジャズピアニスト"、物語のキーになるのは、ピアノと自転車、そしてジャズスタンダードの"Summertime"…といったところなのだけれど、彼らが順々に紹介されていくだけで、どういう系統の話が展開されていくのかということはすぐにわかってしまう。あーそういうタイプね、そういう話ならよく知ってるよ、いかにも中学受験の問題とかに出てきそうな感じだよね、なんて気分になってしまうのだ。

にも関わらず、この作品が大人の心に響き得るのは、全体的なバランス感覚が素晴らしいからなのだとおもう。子供たちの交流のきらきら感(もちろん、これこそが本作のいちばんのセールスポイントだ)、無邪気で「子供らしい」気持ち、いっけん遠く離れているようでじつはすぐ隣にある大人たちの世界、そんな外的環境によって生じる「意外と大人びた」悩み、そして、さまざまな場面で人物たちの心情を反映させながら繰り返し演奏されるピアノの音…っていう、定番的な構成要素のそれぞれが、どれもあっさりめ、かつ、うまく余韻を残すような、まあなんともいい塩梅で配置されているのだ。

そしてもちろん、大人をぐっとこさせるのは、かつて存在していたのかどうかすらも定かではない「あの頃」を振り返って見たときに生ずるノスタルジアの輝きである。たとえば、こんな文章。

私は、早く大人になりたいと思った。 大人になれば、つまらない喧嘩をしたり、つまらない手紙をもらったりしないだろう。こんな冬の日にぴったりの好きな色のコートを買って、一番好きな人と手をつないで風の中を一日中だって歩ける。(p.159)

こういう文章に心を動かされてしまうのは、ここで書き手の大人と読み手の大人、双方の視線が接合されることになるからだ。主人公の少女のこんな願いは、べつに大人になったからって叶うわけじゃない、ということを、書き手の側も、読み手の側も、当然よく知っているからだ。だから、ここで何よりも美しく感じられるのは、少女の感情そのものではない。感情そのものよりもむしろ、「大人になれば」と信じることができた/信じることが許されていた時代がかつてあった(らしい)、ということへのノスタルジア、すでに失われてしまった感情を振り返ってみる視線のなかで生じる、「子供時代」なるものに対するノスタルジアこそが、美しくおもえるのだ。書き手と読み手とが共同で行うその振り返りの動作のなかでは、もはや、「子供時代」が本当に存在したのかどうか、それは本当に輝ける時代であったのかどうか、「子供時代」にそんな感情を抱いたことが本当にあったのかどうか、などといったことは問題にはならない。

佐藤多佳子は、このノスタルジアの喚起の仕方がなんともうまいんだよなー、とおもう。すこし気恥ずかしくはあるけれど、決してべたべたし過ぎることはなく、どこか上品ですらある、そんな程よい甘酸っぱさが、全編に渡って感じられるのだ。狙いどころをしっかりと持った、かなり上手い小説家だとおもった。