- 作者:ポール・オースター
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1995/08
- メディア: 文庫
そんなわけで、もうすぐクリスマス。こないだ理系の友達と、「今年のクリスマス、まだノープランだよー。お前はどうすんのー?」「俺、研究室行こうかなー」「えー、まじで!?」「いや、けっこう何人も来るとおもうんだよね。いや、むしろあいつらは積極的に来るよ!」なんて会話をしていたのだけど、世にはびこるクリスマスのうきうき気分とは一味ちがった、でもちょっといいクリスマスの物語、『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』について、今日は書いてみる。
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作家のポールは新聞社からクリスマス・ストーリーを書くよう依頼されたのだけれど、どうにも書きあぐねている。甘ったるいクリスマス・ストーリーは彼の得意ではないのだ。そこで、ポールは行きつけの煙草屋、オーギーに相談をもちかけてみることにする。オーギーは、もう10年以上、近所の街角のようすを写真に撮りつづけている、それも、毎日きっかり同じ場所、同じ時間に。という、かなりの変わり者である。オーギーは、じっさいにあった話だといって、“ふとした偶然から出会った盲目の老女に、孫とまちがえられたので、そのまま孫のふりをしてクリスマス・ディナーを共にした“という話をしてみせる。ポールは、へえーなかなかいい話じゃない、と感心するのだが、ふとおもう。これは、本当に本当の話なんだろうか??オーギーの表情を見ていても、なんともはっきりしない。
超要約するとこんな話なのだけど、そのなかにこんな一文がある。
誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ。
どんな人にとっても、他者とはそれこそ最初から最後まで他者のままであって、どこまでいっても完全にわかりあうことなんてできない。コミュニケーションをとったり、相手の言うことを理解したりはまあできるけれど、その相手がじっさいに感じているそのもの、を理解することっていうのは、ものすごくむずかしい。だから結局、誰しも、自分の感じていることが相手にもきっと当てはまるはずだ、っていう風にある程度信じて、自分のかんがえを相手に当てはめて、かんがえていなくてはならない。
物語とはそうやって、どこかきっと共通点や類似点があるはず、と信じて語るなかで、はじめてちからを持ちうるものだ。けっして完全に分かりあうことなど叶わないけれど、でもそういう前提に立ったうえで、どのようにコミュニケーションが可能か、ってことをかんがえること。そこでは、オースターが書いているみたいな態度が求められるんじゃないだろうか。
そして、そんな認識をもったうえで語られるクリスマス・ストーリーは、うつくしいものにもなりうる。絶対的な伝達不可能性という存在を認め、そこでためらいつつも物語を語るとき、はじめてその物語は人のこころに響くような、うつくしさやちからを持ちうることになるんじゃないだろうか。そんな気がする。甘ったるいだけのクリスマス・ストーリーっていうのは、たぶん、その認識や逡巡が欠けている。だから切実な感じがしないんだ。そんなふうにおもう。
『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』は、新潮文庫の『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』に収録されているんだけど、いまはアマゾンに在庫がないみたい。けど、この原文と2人がそれぞれ訳したものとが一緒に収録されてる、村上春樹と柴田元幸の『翻訳夜話』なら簡単に手に入るとおもう。あと、『スモーク』って題で映画にもなっていて、それもまたとてもいい出来だった。真実だろうが虚構だろうが、だいじなのは人がそれを信じるかどうかですよね、ってテーマが、複数の主人公の物語として展開されていて、原作の発展型みたいな感じ。ハーヴェイ・カイテルがオーギーの役で、すっごいいい味出してるの。