アン・タイラーは、とにかくふつうの市井の人々の描写というやつがむちゃくちゃに上手い。というか、そもそも彼女の小説はすべて、そういった人々を描いたものだと言ってもいい。ひとくせもふたくせもあることは間違いないけれど、でも本当に平凡な人々、についての描写が、とにかくリアリティ満点なのだ。
一般的に、小説の主人公というのは、なにかしら際立っているというか、魅力的な人物であることが多いだろう。だが、アン・タイラーの小説の主人公たちは、ぜんぜんそういうタイプではない。他の小説世界の住人たちと比べると、ずっと冴えていないし、機転も利かないし、想像力も足りないし、頭もよくない。社会的に成功していたり、壮大な夢や野望を持っていたりすることもない。なんなら大して成長や変化もしないまま物語が終わってしまうこともあるくらいで、もうとにかく心底ふつうの人々なのだ。
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本作の主人公、マギーとアイラの夫婦も、読者の憧れには決してなりそうもないタイプだと言っていいだろう。たとえばマギーは、自分の周囲の人の幸せを願うあまり、いつも余計なおせっかいばかりしている48歳の主婦。とにかく思い込みが激しすぎるし、おまけにものすごくドジで、気の抜けた失敗ばかりしている。息子とその嫁の不和に何かと口出しをして双方から疎まれてしまったり、修理工場から引き取ったばかりの車をトラックにぶつけてはそのまま逃げ去ってしまったり、初対面の人に自分の家族のトラブルを洗いざらい話して聞かせてしまったりする。
これで魅力的かと問われれば、否と言う他ない。けれど、まあふしぎなことに、小説を読み進めていくうちに、このおせっかいでドジで読者をイラつかせるおばちゃんのことが愛おしくなってきてしまうのだ。
タイラーは、物語の進行のなかで、主人公たちの心情や思考をひたすら丁寧に描いていく。とにかく書き込みがものすごい。本作は、友人の夫の葬式に参列するため、マギーとアイラが車で出かけ、そして帰ってくるまでという、たった一日を舞台にした小説ではあるのだけれど、そこには、400ページ以上に渡って彼らとその周辺の人々の物語がびっしりと書き込まれている。そして、その書き込みが何を生み出しているのかというと、それはもうとにかく圧倒的なリアリティということに尽きる。
リアリティがある、というのは、こういう人が現実にもいるよね、ということではない。そうではなくて、作家によって生み出されたこの物語世界のなかで、彼らが確固たる実在感を備えている、ということだ。それはたとえば、マギーが「自分が信じたいことを信じるために、自分をごまかす」癖を持っていたり、アイラが「固いネジや瓶の蓋をゆるめたり、重い家具を動かしたりする」ような「厄介な仕事」に限ってその対象物を女性形で呼んだりする…などといった、なんとも細かなディテールによって形成されている。
そうして、読者はいつしかタイラーのペースに乗せられて、彼らをどこか憎めない、欠点は多々あれど魅力的な人物だとおもわないではいられなくなってしまう。平凡で退屈な中年夫婦の人生の物語に、いつしか寄り添うように読んでいる自分に気付かされるのだ。
これこそまさに、積み重ねられる描写によるディテールの力、物語の魔法とも言うべき力だと言えるだろう。だからこそ、アン・タイラーの小説を読むことには無常のヨロコビがあるのだ。
「あなたと私、デュエットしてたわ」「それで、涙を流して、センチになったわけか」
「そうよ」
「きみらしいな」
「そうよ」。マギーは、目の前にある鏡に向かってほほえんだ。そう宣言したことを誇りたい気持ちだった。私がぐらぐら人に動かされやすい人間だとしても、少なくとも誰に動かされるかを選んだのは、この私よ。あるパターンに閉じこめられているとしても、どういうパターンに閉じこめられるかを選んだのは、この私なんだから……。マギーは、強く自由になり、自信が湧いてくるような気がした。(p.164−165)