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『闘争領域の拡大』/ミシェル・ウエルベック

闘争領域の拡大 (河出文庫)

闘争領域の拡大 (河出文庫)

ウエルベックの小説第一作。この自由資本主義社会において、人間の闘争の領域は、経済領域のみにとどまらず、性的領域においてまで拡大している。経済の自由化を止めることができないのと同様、セックスの自由化もやはり止めることはできず、そこには必然的に格差が生じてくる。すべての男と女は、勝者と敗者、持てる者と持たざる者とに分けられるのだ。だから我々は、モテる人を羨んだり、モテない人を蔑んだりし、その上下関係のなかで、階級闘争を行っていくことになる。いまや誰もが皆その価値観を内面化しているために、性的領域における闘争の外部に自分を置くなどということはまず不可能で、我々はただただ孤独なレースを続けていく他ない…というのが、本作の主人公の考えであり、おそらくはウエルベックの主張だといえるだろう。

以下は簡潔ながら語るべきことを十分に語っていると思うが、いかがだろうか。 『性的行動はひとつの社会階級システムである』(p.116)

やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対応する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。(p.126)

いまの世の中では、経済的格差とは「良くないこと」「是正すべきもの」であるということで一定の合意を得られているといっていいだろう。しかし性的領域における格差についてはどうだろうか。恋愛弱者、セックス市場における敗者には、何らの救済措置も用意されていないのではないか?恋愛やセックスができない男女は、己を認め受け入れてもらい、愛情を交換する、といった関係性から阻害されており、それはある意味「ひとりの人間としてきちんと処遇」されていなことに、つまり、その実存を否定されていることになるのではないか?これこそがまさに市場原理主義の本性、あまりに残酷であるがゆえに皆が口にしない本当の姿なのではないか??…そんな風にウエルベックは問うているわけだ。

上記のような性的領域における闘争に完全に巻き込まれている主人公(30歳♂)は、この闘争こそが、一般に「愛」を不可能にしているのだと語る。彼は人間嫌いのニヒリスティックな男で、とくに美しくもなく、人格的魅力にも欠けるという、闘争における相対的な弱者であるわけだけれど、そんな自分のもとにごく稀に現れる女性のことを愛することもできないでいる。彼に言わせれば、彼を選ぶような女性は、彼のことを「一時の代用品」とかんがえていたり、あるいは、彼よりもさらに性的領域における魅力が低く、彼にとっては妥協の対象であるケースがもっぱらなのだ(というのも、自由な性的市場においては、いくらでもより魅力的な性的対象を見つけることができてしまうわけで、我々の理想は高まるばかりだからだ)。

彼曰く、「愛」というのは、老年に至るまで長く連れ添った夫婦の間に結果的に生じているような感覚のことを指すものらしい。この定義に従う場合、「愛」を手に入れるためには、一人の相手と長い時間をかけて関係を構築する必要があるわけだけれど、性的市場の自由さと、性的市場のヒエラルキー化が、そのような長期的なコミットメントを妨げているのだ。彼は、愛は「人間の本質を成すなんらかの欲求と奇しくも一致している」もので、愛されたいという欲望は、人間の内奥の「とんでもない深部にまで根を下ろしている」ものだと言うが、そんな人間存在にとってきわめて重要な要素であるところの愛が、闘争領域の拡大によって不可能なものになってしまっている、というわけだ。

彼のような持たざる者にとって、この世界は強い向かい風の吹きつける、困難な場所であり続けることになる。求める「愛」は決して手に入らず、かと言って闘争の外部に逃げ出すこともできはしない。本作の主人公は、そんな世界と自分自身とを冷笑し、俯瞰した視線で眺めようとはしているけれど、自身が闘争の当事者であることから逃れることはできないわけで(つまり、「愛」を望み、期待することを止めることはできないわけで)、徐々に精神を病んでいくことになる。