マルクスがヘーゲルの法哲学を批判しようとする動機と論拠とはいかなるものであるのか、が簡潔に記された文書。このなかで、プロレタリアートとはいったいどのような役割を担っていく存在であるのか、ということについても少しだけ触れられている。
まず、マルクスは、宗教とは現実における悲惨の表現であり、かつ、それに対する抗議でもある、そういった存在であると言う。
宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。(p.72)
宗教は、現実的な幸福を実現することのできない民衆に対して、天上での幸福を提示する「民衆の阿片」として機能する。だから、宗教を揚棄するためには、「民衆の現実的な幸福」が得られるよう求めていかなくてはならない、ということだ。
そうして彼は、このように続ける。
それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりもまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する。(p.73)
かなりややこしい言い方をしているけれど、要は、宗教に頼らないで生きていくためには現実の改革が必要であり、それは歴史的な課題である。よって、歴史に奉仕し、真理を探求しようとする哲学の課題とは、まさにこの現実社会について解き明かすことだということになる…というような話だ。
現時点のドイツは、その他の近代国家と比べて市民社会としてまだまだ成熟しておらず、時代錯誤とも言えるような点が多々あるけれど、哲学についてはじゅうぶんに成熟している、とマルクスは言う。というか、ドイツの法哲学と国家哲学――それはヘーゲルによって「もっとも首尾一貫した、もっとも豊かな、もっとも徹底したかたち」で示されたものだ――こそが、近代的現在と同じ水準で語ることのできる唯一のドイツ史である、と言っている。
古代諸民族が自分たちの全史を想像のなかで、つまり神話のなかで体験したように、われわれドイツ人はわれわれの後史を思想のなかで、つまり哲学のなかで体験した。われわれは現代の歴史的な同時代人ではなくて、その哲学的な同時代人である。ドイツ哲学はドイツ史の理念的な延長である。したがって、われわれの実際の歴史の未完成を批判する代わりに、われわれの観念的歴史の遺作である哲学を批判するとき、われわれの批判は、それこそ問題だと現代が言っている諸問題のまっただなかに立つことになる。(p.81)
ただ、ドイツにおいては、哲学と政治的実践とがうまく結合していない。ドイツは、フランスのような、「国民のいずれの階級も政治的理想主義者」というようなタイプとは違うのだ。では、いったいどこに「民衆の現実的な幸福」の可能性、「ドイツ解放の積極的な」可能性を見出すことができるのか?
それこそが、プロレタリアートである、とマルクスは述べる。「社会の他のすべての領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のすべての領域を解放することなしには、自分を解放することができない一領域、一言でいえば、人間の完全な喪失であり、それゆえにただ人間の完全な再獲得によってのみ自分自身を獲得することができる一領域」であるところのプロレタリアートは、急激な産業の発展と社会の解体によって生み出された階級、市民社会の矛盾と疎外とを体現している階級である。だから、「社会の否定的帰結としてプロレタリアートのうちに体現されているもの」を理論的に分析し、その実践的な政治的解放を目指すということこそが、現在における哲学の課題であるということになるし、また、プロレタリアートの解放というのは哲学の政治的実施によって初めて可能になるものだといえる…マルクスはそんな風に書いている。
哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちにその精神的武器を見出す。そして思想の稲妻がこの素朴な国民の地盤の根底まで貫くやいなや、ドイツ人の人間への解放は達成されるであろう。(p.95)
ドイツ人の解放は、人間の解放である。この開放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアートの揚棄なしには自己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない。(p.96)