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『怒りの葡萄』/ジョン・スタインベック

怒りの葡萄〔新訳版〕(上) (ハヤカワepi文庫)

怒りの葡萄〔新訳版〕(上) (ハヤカワepi文庫)

怒りの葡萄〔新訳版〕(下) (ハヤカワepi文庫)

怒りの葡萄〔新訳版〕(下) (ハヤカワepi文庫)

1930年代、折からの大恐慌に加え、厳しい日照りと大砂嵐が続いたことで、アメリカ中西部の小作農たちの多くは土地を失った。銀行と大地主たちは彼らの土地をトラクターで耕し、資本主義の名の下、合理化を進めていく。土地を追い出され、流浪の民となった彼らは、果物の収穫に大量の人手を募集しているという宣伝ビラを頼りに、トラックに家財道具一式を積み、ルート66をひたすら西へ、カリフォルニアを目指して進んでいくのだが…!

物語の主人公は、オクラホマの小作農ジョード一家。土地を失い、一縷の望みを頼りにカリフォルニアへと向かっていく彼らの苦難の道程を中心にストーリーが進行していくのだが、これがまあ何とも読んでいて辛い。持てる者が持たざる者から搾取する、どこまでも合理的で無慈悲な構造に彼らは完全に取り込まれており、その状況を変える術をまったく持っていないのだ。

土地を奪われた彼らは、西へと向かうために家財道具を売り払ってトラックを買おうとする。中古車販売業者は彼らの足元を見て、ことさらボロいトラックを高い値段で売りつける。必死の思いでカリフォルニアに辿り着いても、そこでは自分たちと同じような境遇の労働者たちが既に大量に集められており、供給過多となった労働力は法外な値段で買い叩かれる。仕事場の近くの店では食料品に異様に高い値段がつけられている。安く買うためにはガソリンを使って町まで行かなければならない。コミュニティを作ろうとすれば、すぐに扇動が入る。ストを画策すれば、アカとしてしょっぴかれる。そうこうしているうちに、手持ちの金はなくなり、子供や老人は飢えて死んでいく。もはやどんなに安い賃金であろうと働かないわけにはいかなくなる…。

あんまりにもあんまりな状況だが、ジョード一家の運命に希望の光が差すことは最後までない。彼らの生はまさに不屈の民衆代表とでもいうべきものだけれど、だからといってスタインベックは彼らに対して何の優遇措置も取らないのだ。まさにどん詰まり、八方塞がり、彼らの苦難の道程はどこまでも果てしない。読んでいて胸が苦しくなってしまう。

そういうわけで、全編を通して感じられるのは、富の極端な集中とそこから生み出される貧困に対する、強い哀しみと怒りの感情だといえるだろう。それは、こんなことが許されるのか?という叫びであり告発であり、と同時に、こんなことがいつまでも許されるはずがない、やがて暴動が起こり、反乱が組織され、革命が成し遂げられるだろう、その時はもうすぐそこまで迫ってきている、という警告でもある。

本作のプロットが出エジプト記をモチーフとしていることもあってか、物語の肝となるようなシーンは、いずれも神話的で聖性を感じさせる荘厳なものになっている。(トムと母ちゃんの別れのシーンや、エンディングの不思議な静謐さは忘れがたい。)スタインベックは、何も持たない者がそれでも生きていくこと、ただ力尽きるまでその生命を全うし、また次の世代に生命を繋げていくこと、そうして少しずつでも前へと進んでいこうと試みること、そんな人間の営みそのものに、聖なるもの、美しいものを見出そうとしているようだ。

誰も一歩踏みだそうとせず、前に進もうという欲求を持たないなら、爆弾が落とされることも、喉を切られることもないだろう。爆撃手が生きているのに爆弾が落ちなくなるときを怖れるがいい――爆弾のひとつひとつは精神が死んでいないことの証だからだ。大金持ちたちがまだ生きているのにストライキが起きなくなるときを怖れるがいい――弾圧される小さなストライキのひとつひとつは前に進もうとしていることの証だからだ。これだけははっきり言える――人間がある構想のために苦しんだり死んだりするのをやめるときを怖れるがいい。なぜならこの性質こそが人間自身の土台であり、この性質こそが宇宙の中で特別の存在である人間そのものだからだ。(上巻 p.277,278)