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『ソロモンの指環 動物行動学入門』/コンラート・ローレンツ

「刷りこみ」現象の発見で有名なオーストリアの動物行動学者、ローレンツによるエッセイ。「動物行動学入門」というだけあって、ジャンル的には科学エッセイという感じだけれど、難しいところはまったくない。ローレンツの筆致は動物に対する興味と愛情と尊敬の念とに溢れており、動物好きな人とか、ファーブル昆虫記が好きな人ならきっとたのしく読めるに違いない一冊になっている。随所に岩波少年文庫風のイラストが収められているのも、キュートで――これは小難しい本じゃないんですよ、と言っているような感じで――よい。

ローレンツは、動物たちと文字通り寝食を共にしながら(家のなかで大量の動物が放し飼いになっている)、彼らの行動を熱心に観察し続け、その意味するところを読み解こうと奮闘していく。とくに、ローレンツと動物たちとが「心を通わせる」エピソードなんかは、ごく単純に読みものとしてたのしくて、ぐっとくるようなところがある。たとえば、コクマルガラスのこんな話。

親になってから買った一羽のコクマルガラス(オス)が、私を恋するようになり、私をコクマルガラスの妻とまったくおなじようにあつかうということもあった。この鳥は、自分のえらんだ直径わずか二、三十センチの巣穴の中に私をはいりこませようと、何時間でもしんぼう強く努めるのだった。(p.77)

彼は自分がえりぬきの珍味だと思っている餌を、たえずしつこく私に食べさせようとする。そのさい奇妙なことに、彼は人間の口がものを飲みこむところであることを、解剖学的にじつに正しく「理解」した。もし私が適当な餌乞いの声をだしながら彼にむかって口を開いてやったなら、彼にこの上ない幸福を味わわせてやることができただろう。だがこれは私にしてみれば、相当の犠牲的精神を必要とした。というのは、いかにさすがの私でも、こまかくかみくだいて、コクマルガラスのつばきとこねあわせたミールワームは好きではなかったからだ。(p.77,78)

あるいは、ハイイロガンのヒナ、マルティナの話。マルティナは、「刷りこみ」によってローレンツのことを自分の母親だと認識している。

あわれなヒナは声もかれんばかりに泣きながら、けつまずいたりころんだりして私のあとを追って走ってくる。だがそのすばやさはおどろくほどであり、その決意たるやみまごうべくもない。彼女は私に、白いガチョウではなくてこの私に、自分の母親であってくれと懇願しているのだ。それは石さえ動かしたであろうほど感動的な光景であった。ため息をつきながら私は、この十字架を肩ににない、家へ連れて帰った。(p.162)

ひとりぼっちの孤独にたいするこの深く本能的な嫌悪から、当然マルティナは私という人間にしっかり結びついてくることになった。マルティナは私がどこにいってもついてきた。書き物机で仕事をしているとき、私は彼女を私の椅子の下にすわらせておいた。そうすればマルティナはまったく満足しきっていた。彼女に手を焼くことはなかった。彼女がときどき気分感情声を発して、私がまだそこに生きているかどうかたずねるたびに、はっきりしない声でモガモガと答えてやりさえすれば、それで十分であった。彼女は昼間は二分ごとに、夜は一時間ごとに、この問いかけを発した。(p.167)

こんな風に描写される動物たちの姿はとっても可愛らしいけれど、ただ、ローレンツは、彼らをいたずらに擬人化しているわけではない、と念を押している。

こんな表現をしても、私はけっして擬人化しているわけではない。いわゆるあまりに人間的なものは、ほとんどつねに、前人間的なものであり、したがってわれわれにも高等動物にも共通に存在するものだ、ということを理解してもらいたい。心配は無用、私は人間の性質をそのまま動物に投影しているわけではない。むしろ私はその逆に、どれほど多くの動物的な遺産が人間の中に残っているかをしめしているにすぎないのだ。私はさきほど、コクマルガラスのオスがコクマルガラスのメスにたちまち惚れこんだと述べた。これもちっとも擬人化ではない。この惚れこむということ――イギリス人はたいへん造形的に「恋におちる」というけれども――において多くの高等な鳥類や哺乳類は、まさにに人間と同様にふるまうのである。(p.99)

動物が「人間のようにふるまっているように見える」のではなく、われわれがふだん「人間ならでは」とおもっているような性質のうちのある部分は、「前人間的」なもの、言ってみれば「動物的」なものなのだ、ということだ。これはまあ、あたりまえと言えばあたりまえの話だ。どのような「人間的」な思考や感情も、もともとは自然のなかで生み出され、進化のなかでその形を少しずつ変えながら形作られてきたものに違いないのだから。