佐藤は、自身が巻き込まれることになった事件のことを、小泉政権の国家政策の路線転換に伴なって行われた国策捜査によって恣意的に生み出されたものだ、と言う。だから、彼によれば、この事件の本質は表層部に表れている経済事件などではなく、「これまでの国策」によって日露平和条約の早期締結に向けて働いてきた佐藤、鈴木、東郷といった面々が、「新たな国策」によって断罪されるというところにあるのだ、ということになる。
ここで興味深いのは、佐藤が、「私は、外務省や検察に対して怨みや怒りなどを感じてはいない。自分も外務省内で同じような"蟻地獄"を掘ったことは一度ならずあるし、今回のようなケースでも立場が違えば組織の一員としてそのような行動を取ったであろう」、「私自身、時代の転換のためには国策捜査が必要だと考えている」と述べていることだ。政治とは、国家の自己保存の本能とは、権力闘争とは、組織とはそういったものである、という認識が佐藤のなかには明確にあり、だからこのように国策捜査によって逮捕・基礎され断罪されるという事態に陥っても、ある意味では「心の準備」ができており、平静を失ったりすることはない、というわけだ。
じっさい、本書に収められている、獄中で書かれた日記や弁護団への手紙、友人や外務省の後輩への手紙における彼の思考は、驚くほど冷静で、十分に緻密なものだ。拘留されていた500日あまりのあいだに公判の準備を行いながら、250冊程の本を読み、60冊以上のノートを埋め、思索を深めていくさまは、凄味があるというだけではなく、もはや美しささえ感じられる。佐藤は、「私は知識人というのは、自己の利害関係がどのようなものであるかを認識した上で(つまり、自分には偏見があるということを認めた上で)、自己の置かれた状況をできるだけ突き放してみることのできる人間だと考えています」と述べているけれど、ここにはまさにその実践が記されているのだ。
彼の精神的なタフネスには圧倒されてしまうけれど、それを根底の部分で支えているのは、宗教者、キリスト教者としての思考であるようだ。
キリスト教という宗教を知っているか否か、キリスト教を信じるか否かというのは二次的な問題で、新旧約聖書で証されている啓示、特にイエス・キリストという形で歴史に参与した神が伝えているメッセージの普遍性を証明するためには、キリスト教的言語にこだわる必要はないと僕は考えている。(p.312)
国益のため、日本国民のために仕事をするといっても、それが外務省内での出世のため、世間での名誉のためということでは、出世に繋がらず、メディアでの非難の合唱が起きれば、当該人物の国益感は崩れてしまう。国益に対する信念、日本の将来に対する希望、そして同胞である日本人への愛をもっていれば、要するに「究極的なもの」が自分の中にあるならば、相当のことがあっても人間は崩れることはないと思う。(p.354)
佐藤にとって「国益に対する信念」というのは、「同胞への愛」とも並ぶような「究極的なもの」であるらしい。こういう文章を読むと、やはり思考のベースとなるものがある人は強いな、とつくづくおもわされる。