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『潜水服は蝶の夢を見る』/ジャン=ドミニック・ボービー

閉じ込め症候群(Locked-in syndrome (LIS))となり、左目以外はまったく動かすことのできない状態になってしまった男による、「左目のまばたき」によって書かれたエッセイ集。映画版を見たのはずいぶん前のことだけれど、ふとおもい立って原作の方も読んでみると、こちらも非常に真摯な作品に仕上がっていて、なかなかよかった。

閉じ込め症候群というのは、脳底動脈閉塞によって脳幹の特定部分に障害が発生することで引き起こされる症状だ。このとき、人は四肢麻痺となり、言葉を発することもできなくなる。まばたきや眼球の上下動によってでしか、他者との意思疎通が取れない状態になってしまうのだ。意識や思考など、知的機能は正常であるにも関わらず、身体を動かすことに関してはほとんど不可能、というわけだ。

そのような、きわめて厳しい立場におかれたボービーだけれど、本書における彼の筆致はあくまでも軽やかである。「執筆」時、彼は、編集者が病室を訪れてくる前にあらかじめ文章をかんがえておき、暗記していた(即興で作る文章というのはなかった)とのことだが、たしかにここに収められた文章はいずれも非常に冷静なもので、メランコリーを感じさせこそすれ、自己憐憫に溺れているようなところはほとんどないと言っていい。

たとえば、「グレヴァン蝋人形館」という章。夢のなかで、ボービーは蝋人形館を訪れる。展示されている蝋人形たちに妙に見覚えがあるぞ、とおもうが、それはじつは皆、病院で彼の治療に携わる人間たちの姿なのだった。

初め僕は、恐怖を覚えた。自分が閉じ込められている牢獄の看守たちに、取り囲まれてしまったような気がした。あたりにいるのはすべて、おぞましい陰謀を遂行している邪悪な人間たちのような気がした。そしてその恐怖は、次第に憎悪へと変わっていった。僕が恐怖の態度を表していたにもかかわらず、僕を車椅子に乗せる時に、彼らが腕をねじ曲げたこと、一晩中テレビをつけっぱなしにしていったこと、苦痛でたまらない格好のまま僕を放置したことなどが、次々浮かんでくる。何分かの間、いや何時間か、僕は心の中で、彼らを抹殺していった。 しかしその激しい怒りも、時の流れとともに、やがて静められていった。そしてとうとう、私服で立っている彼らが、困難で微妙な使命を彼らなりになんとか果たそうとしている、なつかしい顔なじみのように思えてきた。僕達が背負った十字架が、あまりに重くて肩にめり込み、痛む時、その十字架を、持ち上げ、立て直すこと。それが彼らの使命なのだ。(p.132)

あるいは、「日曜日」という章。療法士たちの現れない日曜日は、まったくのひとりでいる時間が多い。TVがうるさいのを消すこともできなければ、書棚に並んだ本に手を伸ばすこともできないし、鼻の頭にとまったハエを追い払うことすらも叶わない…という内容だ。

こちらでは止まったままのように思える時間が、向こうでは熾烈な競争をしているかのように駆け抜けていくとは、いったい、どのようなパラドックスなのだろうか。すっかり小さくなってしまった僕の宇宙では、時間は引き延ばされ、逆に月日は稲光のように過ぎてゆく。もう、八月とは。友人たちも、その妻たちも、子どもたちも、今頃は夏休みの風に吹かれて、皆あちこちに飛んでいっているのだろう。僕は目を閉じ、心の中で、彼らの夏の居場所を順々に訪ねてみる。少し胸を引き裂かれもするが、それはしかたあるまい――。 ――ブルターニュ。自転車に乗った子どもたちの一群が、輝くような笑顔で、市場のほうから帰ってくる。何人かはすでに十代の難しい時期に入っているが、シャクナゲの咲くこの道では、誰もが再び、無垢な自分を見いだすことができるのだ。今日はこれから、ボートで小島を一周する予定。小さなエンジンは、水の流れに懸命にさからっていくだろう。誰かがボートの先端に腹這いになり、目を閉じ冷たい水に手を浸して、その流れを感じ取ることだろう。(p.121,122)

彼は、どんなに辛くみじめな思いをしたとしても、決してユーモアやエレガンスを失わないでいよう、ということを、どこかの段階で己に厳しく課すようになったのだろうか。あるいは、あまりにも過酷な状況に追い詰められてしまったがために、そのような強さや勇敢さを発揮することを余儀なくされるようになった、ということなのだろうか。まあ、どちらであったとしても、本書に収められているのがひとりの美しい人間の姿だ、ということには変わりはないだろう。

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