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『丕緒の鳥 十二国記』/小野不由美

なんと12年ぶりのシリーズ新刊。前作『華胥の夢』を読んだときには、俺もまだ高校生だったもんな…。はっきり言って、もう「十二国記」の新刊が出ることなんて期待すらしていなかったのだけれど、いやー、やっぱり安定のおもしろさだった。今後、さらに書き下ろし長編も出るとのことなので、それまでに以前の作品も読み返しておかなきゃ、とおもった。

本作は短編集で、「丕緒の鳥」,「落照の獄」,「青条の蘭」,「風信」の4編が収められている。各編に共通しているのは、荒廃した国における民の生活や小役人の苦悩みたいなものを切り取ったスケッチ的な内容で、王や麒麟など、いままでの作品で主役を張ってきたキャラクターたちが完全に背景に回っている、ということだろう。つまりこれは、シリーズものにありがちな、「世界観に厚みを与え、そのリアリティをより確かなものにするための、幕間的な巻」というやつであって、物語のメインプロットが進められるわけではないのだ。

12年ぶりの新作が幕間の話かよ!って肩透かし感は少なからずあるものの、各短編はどれももれなくおもしろい。「十二国記」はシリーズを通して外れがない――というか、和製のファンタジーのなかでこれよりクオリティの高い作品というのは、あまりないんじゃないかとおもう――けれど、今作においても、世界観の緻密さや物語の構成、扱われるモチーフや描かれるドラマのおもしろさ、キャラクターの立ち具合など、エンタテインメント小説として求められるもろもろの要素は、総じて高いレベルにあるように感じられた。

たとえば、世界設定の細密さというところで言えば、タイトル作の「丕緒の鳥」で扱われる、「陶鵲」なる儀式についての説明。これなんて、いかにも幻想小説、という感じのたのしさがある。

大射とは国家の重大な祭祀吉礼に際して催される射儀を特に言う。射儀はそもそも鳥に見立てた陶製の的を投げ上げ、これを射る儀式だった。この的が陶鵲で、宴席で催される燕討は、単純に矢が当たった数を競って喜ぶという他愛ないものだが、大射ともなれば規模も違えば目的も違う。大射では、射損じることは不吉とされ、必ず当たらねばならなかった。射手に技量が要求されることはもちろんだが、陶鵲のほうも当てやすいように作る。そればかりでなく、それ自体が鑑賞に堪え、さらには美しく複雑に飛び、射抜かれれば美しい音を立てて華やかに砕けるよう技巧の限りを尽くした。果ては砕ける音を使って楽を奏でることまでがなされる。(p.17,18)

打ち出された陶鵲を順次射ていくと、砕けて立てる音が連なって楽になる。大編成の楽団が奏じる雅楽なみの音を鳴らすため、三百人の射手を居並ばせたものだ。御前の延を色とりどりの陶鵲が舞う。舞ったそれを射ていくと、大輪の花が開くように砕け、磬――石や玉で作った楽器――のような音色がして、豊かな楽曲が流れる。音程を揃えようとするとどうしても芳香をもたせることができず、足りない香りを補うため、周囲には六千鉢の枳殻を用意させた。(p.18)

各短編の主人公たちは、厳しく苦しい時代を生きるなかで、己に与えられた「役割」について悩みながらも、それを真摯に、そして必死にこなしていく。その「役割」は、個人が背負うにはあまりにも重過ぎるものであったり、あるいは逆に、誰かの役に立つようには到底おもえないものであったり、まあ各人各様ではあるのだけれど、とにかくそれこそが「いま、自分がやるべきこと」なんだ、と心に決めて取り組んでいく。そういった場面において重要になってくるのは、「役割」の価値だとか意味だとかいったものではない。ただ、それが自分に責任のある「役割」なんだと強く感じられるということ、その感覚そのものこそが大切なのだ…というようなテーマが全編を貫いているように感じられる。

そういう意味では、本作は主人公こそ小市民になっているけれども、シリーズのいままでの作品と同様、「全体における個の役割」だとか、「与えられた役割のなかで、人はいかに生くべきか」などといった葛藤が扱われた物語だと言うことができるだろう。そして、その物語はファンタジーとしてじゅうぶんなリアリティを備えた、骨太なものになっているようにおもう。