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『モモ』/ミヒャエル・エンデ

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

十数年ぶりに再読。全体的にバランスの取れた、かなりクオリティの高い作品だと感じたけれど、と同時に、これほど作品の「テーマ」について語ろうとするのが難しい作品というのもそうそうないな、とおもった。

ある孤児の少女が、街外れにある円形劇場の廃墟に住み着く。モモと名乗る彼女は、「人に耳をかたむける」能力に秀でており、彼女に話しかけることで、人々はみな自分の意志をはっきりと持つことができるようになるのだという。そんなモモのもとに、灰色の男たちが姿を現す。彼らは「時間貯蓄銀行」の外交員であり、時間を節約し、その分の時間を「時間貯蓄銀行」に預ければ利子によって何倍もの時間を得ることができる、などと言っては街の人々を誘惑しているのだ。時間を銀行に預けるようになり、時間の倹約に追い立てられるようになった人々は、生きるよろこびや意味さえも見失ってしまうようになる。モモは、友達たちの時間を取り戻すべく、「時間どろぼう」たる灰色の男たちとの戦いに向かうことになるのだが…!

Amazonのカスタマーレビューなんかを見てみると、どうやら本書の読まれ方には大きくふたつの流れがあるようだ。ひとつは、「これは、効率化ばかりを追求する現代資本主義社会への警鐘である。我々は、進歩発展を希求するあまり、時間から疎外されてしまっているのではないか…」と言い、「『モモ』は、日々の生活の忙しさに追われて大切なものを見失ってしまった大人のための童話である」とするタイプ。もうひとつは、「モモで扱われている「時間」とは「貨幣」の謂である。エンデは利子という仕組みに対してメタファーを用いて反論しているのだ…」と言って、地域貨幣論なんかと結びつけて語るようなタイプだ。(こちらのタイプは、エンデ自身の貨幣に関する著作や発言をやたらと重用する。)

これらの主張の内容自体が間違っているとはおもわないけれど、「テーマ」こそが作品の本質であるかのような錯覚を抱かせる物言いであるという点、そして、物語世界に内包された独特のリアリティや、作品を読んだときの心の動きといったものをまったく無視してしまっているという点において、これらはどちらも、陳腐で退屈、平板な意見だと言わざるを得ないのではないかとおもう。もっと言ってしまうと、こういった「解釈」というやつは、単に、「ミヒャエル・エンデが『モモ』の世界を創造する上で前提とした設定や世界観にリアリティがあって、そうだよなーって納得できた」というだけのものであって、作品そのものとはほとんど無関係なものではないか?とすらおもう。

とはいえ、このような「解釈」(「作者のメッセージは…」、「エンデが言わんとしていることは…」)ばかりが横行する原因というのは、やはり作品の側にもあるはずだ。そうでなければ、『モモ』について書かれた解説や感想のどれもがこれほど同じように退屈になるはずがない。おそらくだけれど、『モモ』という物語は、全体的に寓意が勝ち過ぎているのだ。灰色の男たちと時間の花、「生産性」を求める時間の倹約家たちと「人の話にじっくり耳を傾ける」モモ、若者のジジと老人のベッポなど、各関係がかっちりと計算され過ぎているというか、構図が明確過ぎるというか…。そのために、作中に登場するあらゆる要素が"何かの表象"として読めてしまい、読者の「解釈」を誘発する(「解釈」しないではいられなくなる)のではないか…そんな気がする。

もちろん、ファンタジーというジャンルにおいては、作中に登場するあらゆる要素が"何かの表象"のように見えてしまうこと、あるいは、"何かの表象"として機能していることが多いだろう。だが、本当に優れたファンタジー作品においては、ある要素が"何かの表象"であるように感じられたとしても、じっさいのところ"何の表象"であるのかはよくわからない、という幻惑的な感覚が常につきまとっているものではないだろうか。『モモ』にはそういった夢幻性、多面性といったものはあまり感じられないようにおもう。もっとずっとシンプルで、図式的、構築的なのだ。