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『星の王子さまの世界 読み方くらべへの招待』/塚崎幹夫

前回のエントリで書いたように、俺は『星の王子さま』をどうもうまく読めていないな…というおもいが拭えなかったので、この本を手にとってみた。タイトルの通り、『星の王子さま』を精読し、作品理解を深めましょう、という一冊だ。物語の細部についていちいち突っ込んだ検討が行われているので、読書中に何かしらの疑問を持った人は、かんがえるためのヒント集として本書を役立てることができるんじゃないだろうか。

…とはいうものの、本書でなされている作品解釈は、正直ちょっと駆け足すぎるものが多いように感じられた。冒頭のエピソードで描かれる、「ゾウを呑み込むウワバミ」が、当時のドイツの軍事行動を指している(どちらもまさに6ヶ月おきに起こっている!)だとか、3本のバオバブは日本・ドイツ・イタリアを表している(早めに芽を摘んでいなかったがために、いまや地球は危機に貧しているではないか!)だとか、風刺される6つの星の大人たちの描写はそれぞれ政治家やら芸術家やらを表象するもので、その描写には大戦期の大人たちの無力さや無関心、身勝手さへの怒りが込められているだとか、王子の星に咲く一輪のバラはサン=テグジュペリの妻、コンスエロを彷彿とさせるだとか、死を賭してバラのために星に帰ろうとする王子のふるまいは、本書を書き終えた後のテグジュペリ自身の行動ともぴったり合致する(彼は、故国フランスのために飛行機での出撃を繰り返し、ついに帰還しなかった)…なんてことをハイペースで言い切られてしまうと、ウェイウェイウェイウェイ、ちょっと待っておくんなさいよ、って気分になってしまう。

塚崎の「解釈」が全体的に誤りだとか、どれもこれも無意味な決めつけに過ぎない、と言うつもりはないけれど、なかなか強引なところはあるようにおもえるし、そもそもこういった、「AはBを表している」、「CはDの象徴である」式の「解釈」というのは作品を貧しくしこそすれ、豊かにすることはほとんどない、というのがまあ俺の意見である。

とはいえ、他人の読解の仕方について理解を深めようとおもうのならば、心を落ち着けて読んでいくのが肝要だ。なにしろ、本を読む上でもっとも大切なのは、ここには真実が書かれている、真理が書かれている、本当のことが書かれている、と信じることなのだ。まずは信じることからはじめなければ、豊かな実りが得られることはまずないし、信じることで得られるものの方が、疑って斜めに構えていることで得られるものよりも有意義なものなのだ、大抵の場合は。

そんな風に自分に言い聞かせ、冷静になって本書の主張を整理してみると、その肝の部分は、「『星の王子さま』は子供や童心を神秘化するものでもなければ、その純粋さを何の理由もなく讃えようとするものでもない」、という辺りになりそうだ。子供や子供的なるものを賛美するためのあいまいな言葉によって、多くの作品解釈・理解がきわめて底の浅い、大雑把なものになっている、というわけだ。これは、俺にとってはちょっと興味深い指摘である。なにしろ、まさしく俺の前回のエントリは、そういった「子供の心の美しさ、素晴らしさの賛美こそが本作の主軸となっている、という読み方に対して異を唱えようとする人はそうそういないだろう」、というかんがえを前提としていたからだ。

塚崎は、こんな風に語っている。

わたしはいまこの書物を、現下の世界の危機にどこまでも責任を感じて思いつめる一人の「大人」の、苦悩に満ちた懺悔と贖罪の書であると受け取っている。他方、人びとのいっているところから判断すると、彼らはこの書物を逃避か、免罪か、ナルシシズムの書物と、どうやら理解しているらしく思われるのである。 「童心教」とでも名づけるべき信仰が、怠惰な精神と共謀して、あえていわせていただくならば、作品そっちのけのこのいい気な読み方をはびこらせているように思える。実際、「童心」という、あいまいで神聖なことばを恭しく唱えておきさえすれば、あらたかな偶像『星の王子さま』から、手に入れることができない承認と免罪符はない、というかのようなぐあいにことが運ばれている。(p.4,5)

汚れのない「童心」をもちつづけていた著者は、人びとの心のなかに生き残っている「童心」に訴えることを期待して、この書物を書いたのだという説明も同様に好評を得ている。この場合、重点はもっぱらわれわれに残っている「童心」というところに移される。この手続きによって、厚顔な錯覚にすぎなくても、「童心」が残っていると申し立てることができるかぎり、だれでも容易に自分を著者のがわに置くことができることになるからである。ほかならぬ当人が告発されているのだが、他のものに罪を負わせることさえできるようになるのである。
この書物に無邪気に感動したふりを装うだけで、心で見なければ見えないという肝心かなめのものを、自分だけは読みとりえたような気分にもなれるのだからこたえられない。(p.5,6)

彼らが動揺を見せないでいるのは、子供向けの本である以上子どもを賛美したものでないはずはない、という信念に支えられているからである。彼らは、この書物の啓示を先どりして伝えているつもりで、子供そのもの、子供時代、子供に属するものを、手当たりしだいに最も断固として称えることに熱中している。しかし、彼らには気の毒だが、サン=テグジュペリには子供を無条件に礼賛するルソー的趣味はない。(p.26)

前回のエントリで、俺は『星の王子さま』で描かれているのは、「汚れっちまった大人への嫌悪感」であり、「大人が子供時代を振り返ってみたときにだけ見出すことのできる、純粋な子供というイメージの美しさに対するノスタルジア」だとおもえる、と書いた。俺はどうやら塚崎言うところの「厚顔な錯覚」からは逃れているようだけれど、かといって、彼のように「一人の「大人」の苦悩に満ちた懺悔と贖罪」を感じ取れたわけではない。塚崎の"子供礼賛派"への攻撃はとどまるところをしらないけれど、まあそこは置いておくとして、では、「懺悔と贖罪」に繋がる要素はいったいどんなところにあるのか。

「王子さま」の最後の決断について、塚崎はこう述べている。

安全なところできれいごとをいうだけなら、だれにでもいえる。危険を十分に知り、こわさに思わず後ずさりしながら、しかし自分自身との戦いに勝って、自分に責任のあるバラのところへ帰っていった王子の姿は、想像しうる最もりっぱな生き方であると飛行士には思われた。/飛行士は最高の友人、人間のなかの真の人間を失ったことを知る。王子は、逃避的大人が都合のよい愛玩物として思い描くような子供ではない。(p.46)

私は『星の王子さま』を読み返すたびにいつもしみじみと思う。<もう読み飽きるほど読んだはずのこの本を読み返して、ぼくは相変わらず涙が出るほど感動してしまうのだが、それも、この本が単に詩的、哲学的、文学的にすばらしいというだけの本ではなく、この本のなかには作者の死の決意と、親しい人たちへのひそかな訣別が秘められているからなのだ。死の決意に裏づけられた、人類の未来への懸命な祈りの書だからだ(p.61)

なるほど、この主張にはなかなか説得力があるようにおもえる。なにしろ、『星の王子さま』という作品が感動的なのは、「王子さま」の最後の決断が、まさにこれしかない、と感じさせるような決断であるからなのだ。塚崎の意見からすれば、『星の王子さま』に書かれているのは、逃避や免罪符やノスタルジアの生暖かい感覚などではない、人間としての責任を引き受けるということの重みであり、その人生を懸けた決断の力強さなのだ、ということになるわけだ。おそらく、この作品の物語から、暖かさや優しさの要素ばかりを汲み取ってばかりいると「厚顔な錯覚」をするように、「王子さま」の最後の決断の重大性に意識を向けると塚崎のような感じ方になる、ということなのだろう。