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『服は何故音楽を必要とするのか? 「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽たちについての考察』/菊地成孔

雑誌『ファッション・ニュース』に掲載された、

「ファッション・ショーに召還された音楽」を「ウォーキング・ミュージック」と仮称し、各メゾンの服とショーの演出との関係を分析しつつ、なぜ服飾には音楽が必要とされるのか?を探るアルケオロジックな。そしてコンタンポランなこの連載(p.57)

をまとめたものが本書。菊地お得意の饒舌過ぎな文体が、ファッション・ショーにおける「ウォーキング・ミュージック」の役割と影響について考察していく、たのしい一冊だ。

この「ウォーキング・ミュージック」というのは、ファッション・ショーのランウェイ上をモデルたちがウォーキングする際に流される音楽のことを指している。それらのほとんどは、ハウス・ミュージック、つまりもともとはダンスのために作られた音楽なのだけれど、ファッション・ショーという舞台で二次的に使用され、「ウォーキング・ミュージック」としての役割を与えられた瞬間に、特別な意味作用を持つようになる、と菊地は語る。「ダンス」音楽が「ウォーク」に使用される。そんな倒錯が、音楽にある種の属性、何らかのスペシャリティを付与している、というわけだ。

では、「ウォーキング・ミュージック」の持つ特別な意味、影響力とは、いったいどのようなものであるのか?菊地は、こんな風に説明してみせる。

例えば私の知るかぎり、クラブでパーティが行われる時、最も踊り狂う職種。というのはファッション関係者、特にモデルとデザイナーです。プロのダンサーは言うに及ばず、DJを含む音楽家、俳優、弁護士、医師、政治家、作家、サラリーマン、ありとあらゆる人々をハイにするダンスフロアという空間の中でも、彼女らの盛り上がりぶりは群を抜いているように思えます。これは何ででしょうか?(p.104,105)
ランウェイを一定の速度で歩き、立ち止まり、ポーズして写真を撮られ、ターンしてまた歩き去る、そしてそれを、何度も繰り返す。という行為は「音楽とまったく無関係でもない動き」であると同時に「決して音楽にノッてはいけない」、つまりはかなり抑圧的な仕事/日常であり、同時にシック、エレガンス、スタイリッシュな仕事/日常なのです。(p.105,106)

ファッション・ショーにおいて、モデルたちが音楽にぴったり合わせてウォーキングするということは、(基本的には)あり得ない。なぜなら、もし、そのようなスタイルでウォーキングがなされたとすれば、それは「ウォーク」というよりむしろ「行進」、「ダンス」、あるいは「マスゲーム」のようなものになってしまうだろうからだ。ファッション・ショーで求められるべきもの――シックであること、エレガントであること、スタイリッシュであること――の達成のためには、モデルたちは、音楽とほんのちょっとだけズレたまま、つかず離れずの微妙な状態を保ったまま、ランウェイをウォークしなければならない。ファッション・ショーをファッション・ショーたらしめるためには、彼女たちは音楽に身を任せる快感から疎外されている必要がある、というわけだ。

ファッション・ショーとは、こうしたジレンマ、抑圧を構造化したものであり、「ウォーキング・ミュージック」とモデルたちとのあいだに生ずる関係の不自然さ、歪みこそが、その独自の美しさに繋がっている。そしてまた、そのちょっとしたズレから生じる微かな効果といったものは、ほとんどの場合、あくまでも無作為的なものである…。まあ、菊地の主張をまとめると、こんなところになるだろうか。

上記のような論が一段落した後は、シーズン毎の各コレクションについての所感/雑記、という感じの文章が続いていく。内容的には若干古いけれど(04年~09年のショーの話が中心)、ファッション・ショーか菊地の文章のどちらかに興味があれば、なかなかたのしく読めるだろう。個人的には、ランバンの音楽監督、アリエル・ウィズマンと菊地が「Sparks最高だよねー!」って意気投合するところがおもしろかったな。