- 作者: サン=テグジュペリ,Antoine de Saint‐Exup´ery,河野万里子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/03/28
- メディア: 文庫
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『星の王子さま』関連本もいろいろと読んできてしまったことだし、そろそろ自分のかんがえをまとめてみなくてはいけない頃合いだろう。今日は(その1)のエントリへの回答編というか、前回感じた疑問について、自分なりの答えを出していってみようとおもう。
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(その1)のエントリで、俺は、「本作で描かれるのは、「王子さま」を代表とする子供の素直さや純粋さの美しさ、そのかけがえのなさだと言っていいだろう」と書いた。…が、どうやら、そもそもこの前提自体が誤りだったようだ。語り手の「僕」が、「子どもならばわかる」「大人たちは忘れてしまった」的な物言いを連発しているものだからまぎらわしいことになっているのだけれど、改めてかんがえてみると、「王子さま」に「子供の代表」をやってもらうというのは、かなり無理があることのような気がするのだ。
例を挙げてみればわかりやすい。もし、「大人って、何が本当に大事なことなのか、ぜんぜんわかってないんだからなぁ…」などと、したり顔でため息をついてみせる子供がいたとしたらどうだろう。はたして、周囲の大人はその子のことを「子供っぽいな」とか「なんて純粋なんだろう!」などとおもうだろうか。どちらかと言えば、「なんて子供らしくない、可愛げのないガキなんだ!」と感じるのではないか。まあこれはちょっと極端な言い方かもしれないけれど、「王子さま」のかんがえ方やふるまいを、「子供」という概念の象徴のようなものとして扱うのは、やっぱり無理があるのだ。
だから、本作についてかんがえる上では、「純粋な子供」vs「汚れっちまった大人」という見立てをすること自体が正しくなかった、ということなのだろうとおもう。たしかに「王子さま」は「まったく、おとなってのは!」という態度をとっているけれど、それは彼が「子供」だからというよりは、彼が「王子さま」だからなのだ。「キノコだ!」というような発言の源にあるのは、彼の属性・立場というよりは、彼の人となり・パーソナリティといったものである、そうかんがえるべきなのだろう。
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さて、となると、本作で扱われているのは「子供というものの素直さや純粋さ」ではなく、「「王子さま」の素直さや純粋さ」だということになる。この違いは結構大きい。"型にはまった教訓話"と"血の通った物語"くらいの差はある。そして、そのようにかんがえなおしてみると、俺が以前気になっていた、作品全体に漂う「厭世的で、大人的なるものへの敵意を剥き出しにするような雰囲気」についても、あまり感情的に受け止めても意味がないのかもしれない、とおもえてくる。
なにしろ、「王子さま」の売りは、その素直さであり頑固さなのであるわけだし、そしてまた彼は物語の主人公として多分に成長の余地を残しているキャラクターなのだ。彼が「大人って、へんな人ばっかりだ!」と言っては断罪してしまうような態度をとったり、「君たちはありきたりのバラに過ぎない」などと平気で言い放ってしまえるのは、生来の残酷さをオブラートに包むことを知らない、悪い意味での子供っぽさの表出だと言っていい。自分の興味のあることだけが「大事なこと」だと平然と言ってのける「王子さま」は、イノセンスの塊ではあるにしても、決して完璧な人格者などではないのだ。
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そして、「王子さま」のそんなラディカルさ、いささか潔すぎる性格を緩和する役割を果たしているのが、語り手の「僕」だということになるだろう。「僕」は、一向にこちらからの質問に答えず、自分の聞きたいことばかり聞いてくる身勝手で子供っぽい「王子さま」に対して、(それまでに登場した「大人」たちとは異なり)理想的な「大人」としてふるまってみせる。それは、「僕」と「王子さま」の精神的な類似性――「大蛇ボア」のなかの「象」が見える、というような――が自然とそうさせた、と説明づけることもできるだろうし、「自分のことを、他人はちっとも理解してくれない」と感じている、そんな孤独な魂同士が共鳴し合ったから、と言ってみることもできるだろう。あるいは、「王子さま」は子供時代の「僕」の分身/幻影のような存在であるからだ、とかんがえてみてもいいかもしれない。
「じゃあきみも、ほんとにのどが渇いてるの?」僕はたずねた。
だが王子さまは、答えなかった。そしてただこう言った。
「水は、心にもいいのかもしれないね……」
僕は意味がわからなかったが、口をつぐんだ……王子さまにあれこれ聞いてはいけないことが、よくわかっていたからだ。
王子さまは、疲れていた。すわりこんだ。そこで僕も、そばにすわった。しばらくしんとしたあとで、王子さまがまた言った。
「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね……」
僕は「ああ、そうだ」と答えると、あとはもうなにも言わずに、月に照らされたやわらかな砂の起伏を見つめた。(p.115)
「地球の人たちって」と王子さまが行った。「ひとつの庭園に、五千もバラを植えてるよ……それなのに、さがしているものを見つけられない……」
「見つけられないね」僕は答えた……
「だけどそれは、たった一輪のバラや、ほんの少しの水のなかに、あるのかもしれないよね……」
「ほんとうだね」僕は答えた。(p.121)
「王子さま」と「僕」との対話は、ほとんどが一方的な「王子さま」の独白のようでもあるけれど、たぶんそうではない。「王子さま」は、やはり、彼の話をきちんと聞いて、受け止めてくれる「大人」というものを必要としていたのではないか。自分の心の内をさらけ出し、吐き出すことで気持ちを整理し、本当に大事なことが何なのかを再確認する。そして、そんな自分のかんがえを静かに聞き入れ、受け入れてくれる存在にゆだねる。そうすることでようやく、「王子さま」の決心――バラのために星に帰る選択をする――は彼自身にとって本当に意味のあることになったのではないか。上の引用部のようなところを読んでいると、俺にはそんな風におもえてくるのだ。
つまり、「王子さま」の成長の最終ステップは、(彼がどの程度自覚していたかはわからないけれど、)自分のかんがえを他人に伝え、理解してもらう、ということにあったのではないか。それによってはじめて、彼のふるまいは一人よがりなものでなくなったのではないか。また、「王子さま」の前で「僕」を理想的な「大人」たらしめているのは、人の話に静かに耳を傾け、それを受け入れる能力だったのではないか。そうかんがえてみると、なかなかしっくりくるような気がするのだ。
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…ずいぶん長くなってしまった。俺のとりあえずの結論としては、以下のような辺りに落ち着くことになりそうだ。
- 「王子さま」は「子供」の代表ではない。
- 「王子さま」の一途なパーソナリティは魅力的ではあるが、それは完璧ということとは違うし、彼は理想的な人間/理想的な子供として描かれているわけでもない。
- 「僕」と「王子さま」との対話には、「大人」と「子供」の間における理想的なコミュニケーションの一様態が表されている。
- つまり、本作の美しさは、"過去を振り返ってみたときに発生するノスタルジア"だけにあるのでない。それだけではなくて、「王子さま」が「僕」との対話を通して成長し、その上で最終的な決断を下すというところにもまた、見落とすことのできない美しさがある。
こうやってまとめてみるとずいぶん当たり前で面白みのない結論だし、やっぱり、"3."と"4."はちょっと無理がある気もするけれど、多少はすっきりできたかな、とはおもう。いや、もちろん、他にも読み方はいくらでもあるだろうし、とくにこれが「正しい」「正解の」読み方だみたいな主張をするつもりもない。こんな風にかんがえると、俺が(その1)で書いたような違和感にはある程度説明がつけられるし、まあそれなりに納得感がある、というだけのことだ。…いやー、それにしても、なかなか難しい本だね、これは。