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『世界は分けてもわからない』/福岡伸一

生物学者、福岡伸一の科学エッセイ。理系の新書にはちょっと不似合いなくらい、「本好き」な人っぽい言い回しが頻出するところが特徴的な一冊だった。福岡の文章は「いまいちこなれていない美文調」という感じで、あまり上手いとはおもえない――正直に言うと、読むのが苦痛な瞬間もあった――のだけれど、でも、俺はこんな風に「本好き」な匂いのする人にはとことん弱いのだ。

扱われているテーマは、タイトルの通り、「この世界は、分けてみたところでわからない。けれど、やっぱり人間には分けてみることしかできない」ということだ。超早口でまとめてみると、以下のような感じになるかとおもう。

  • この世界を部分として切り取り、理解するということは、本来的に不可能である。
  • この世界に発生するあらゆる事象は、必ずいくつもの要素が連関し合うことで成立しているのだから、どこかのポイントでその繋がりを無理やり切断して、因果関係なるものを見出してみたところで、それはあくまでも人工的なもの、人間の都合による一解釈ということでしかない。
  • この世界に存在するのは、因果の法則に従った機械的なメカニズムなどといったものではなく、動的平衡とその効果ばかりなのである。
  • とはいえ、人間にはこの世界を一望俯瞰するような視点を持つことは叶わないし、かといって、見せかけの因果関係にこだわり続けているだけでも、やはり、世界の実像に接近することはできない。
  • だから、われわれはそういった人間の限界というものを絶えず自省しながら、この世界に相対していかなくてはならないのだ…!

福岡はこれを説明するために、ミクロなものからマクロなものまで、あれやこれやと例を挙げていく。

外科医のメスは、身体中をくまなく巡り身体から嗅覚という機能を切り出すためには、結局、身体全体を取り出してくるしかないことに気づかされることになる。つまりこの思考実験で明らかにされることは、部分とは、部分という名の幻想であるということにほかならない。そういうことなのだ。
鼻はどこかの工場で製造された機能モジュールではない。別途、作られた後、身体という筐体の特定の部位にガチャンとはめ込まれた、そんな部分品ではないということである。鼻の生成はむしろ全く逆のプロセスなのだ。たったひとつの受精卵が発生とともにすこしずつ形を変えながら分化して形態が形成されていく。そこにあるのは、部品と部品の境界面ではない。連続しながら変化する細胞のグラデーションが存在しているだけだ。(p.114,115)

連続して変化する色のグラデーションを見ると、私たちはその中に不連続な、存在しないはずの境界を見てしまう。逆に不連続な点と線があると、私たちはそれをつないで連続した図像を作ってしまう。つまり、私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足を補って見ることが、生き残る上で有利に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。(p.163)

顕微鏡下で時間の止まった細胞を観察している生物学者の眼は、その一瞬前も、その一瞬あとも全く見ることができない。絵は空間的にも、時間的にも切り取られる。そのとき私は、生命の動的平衡を見失い、生命は機械じかけだと信じる。
この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。(p.274)

テーマ的にとくに真新しいものでないとはいえ、例として挙げられる話がいちいちおもしろいのが、福岡の人気の理由だろう。須賀敦子のエッセイ、チャールズ&レイ・イームズの『パワーズ・オブ・テン』、ランゲルハンス島、ヴィットーレ・カルパッチョの分断された絵画、錯視、ソルビン酸、ガン細胞に関する実験データの捏造など、いっけん無作為に散りばめられたかのようなエピソードたちが、やがて「世界は分けてもわからない」というひとつのモチーフのもとに繋がっていく…という構成は、読んでいてわくわくさせられるようなところがある。