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『リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義』/渡辺靖

リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義 (中公新書)

リバタリアニズム-アメリカを揺るがす自由至上主義 (中公新書)

  • 作者:渡辺 靖
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/01/18
  • メディア: 新書
近年、アメリカ社会に広がりつつあるリバタリアニズムについて簡潔にまとめられた一冊。文化人類学を背景に持つ著者が、トランプ政権誕生後のアメリカ各地を訪れ、リバタリアニズムの現在についてレポートしてくれている。

一読してよくわかるのは、リバタリアニズムとひとことで言っても、その内実は非常に多様であり、既存のイデオロギー分類に当てはめて整理するのは難しい、ということだ。本書で多くのリバタリアンに通底する方向性として挙げられているものには、以下のようなものがある。

  • 経済的には、保守=共和党寄り
  • 社会的には、リベラル=民主党寄り
  • 思想的源流には、ロック、アダム・スミス、ヒューム、カントなど
  • 政治的源流には、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファーソンなど

だが、じっさいのところ、主張の細部や社会的な課題に対するスタンスには、人によってかなりばらつきがあるらしい。政治への関与の度合い(無政府主義、最小国家主義、古典的自由主義)や、自由を至上価値とする論拠(「自然権」論、「帰結」論、「契約」論)などの観点で、じつにさまざまなのだ。

要は、個々人がそれぞれにリバタリアニズムを解釈しているというような状態であり、そこには過激派や急進派もいれば、穏健な改革路線派もいるということで、相当な幅があるわけだ。だから、たとえば、リバタリアニズム=「白人富裕層による、弱者切り捨て、人種差別的なイデオロギー」などという風にかんがえてしまうのは端的に誤りである、ということになる。

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とはいえ、ひとつのイズムとして包括して捉えられるからには、やはり共通するものがなくてはならない。リバタリアンの共通点、そのもっとも基本的な態度として渡辺が挙げているのが、「他者との相互不可侵の関係性」である。これは、「相手(ないし自分)の自由を侵害しない限り、自己(ないし他者)の自由は認める」というもので、なかでもとりわけ重視されているのは「自己所有権」だ。

だから、リバタリアンは基本的に、国家というものに対して懐疑的な態度を取る。国家が個人の財産や身体に対して強制的に介入することは、「自己所有権」の侵害であり、個人の意思に背いた「暴力」である、というわけだ。リバタリアンにとっては、国民であることよりも、個人であることの方が優先度が高いのだ。

もっとも、所有権というものひとつとっても、現実世界における個別具体的な話となると、厳密に定義することは難しい。そしてまた、「他者との相互不可侵」とは言っても、自己と他者とはどこまで厳密に切り離せるのか?という疑問もある。渡辺はこう書いている。

俗っぽい言い方をすれば、今日の「私」があるのは「周囲」のおかげでもある。もしそうであるとすれば、「個人の権利」は「他者への責務」と常に結びつけて論じられるべきテーマのように思える。リバタリアンにとっての「他者への責務」とはまず何よりも「他者の自由を侵害しないこと」を指すのだろうが、果たしてそれだけで十分なのか。(p.114)
個人の行動は意図せぬ形で多方面かつ多次元に影響を及ぼし得る。「甲の損は乙の得」ではないが、いかなる他者の自由も全く侵害しない行動というのは稀ではないのか。時間(世代)や空間(地域)を跨いだ影響まで考えると尚更だ。もしそうであるとすれば、「個人の権利」ないし自己所有権に一定の歯止めをかける価値基準が必要にも思える。(p.114)

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そういうわけで、リバタリアニズムについて全面的に同調できるかどうかはともかく、政治的・社会的課題は「お上がなんとかするもの」だとかんがえている日本人からは到底生まれそうにない思想だな、と感じさせられた一冊だった。個人の自由とは、自らの手で守り、勝ち取っていかなければならないものだ、というリバタリアン的な発想や行動ほど、明治維新以来ひたすら中央集権型で進んできた日本人からかけ離れているものもないだろう。「自由」ということの意味や価値をかんがえ直す意味でも、リバタリアニズムについて知ろうとすることは有用だろうとおもう。