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『生きがいについて』/神谷美恵子

「生きがい」とは何なのか、それは人の生にとってどのような意味を持っているものなのか、どのように人は「生きがい」を得るに至るのか、などといったことについて扱われた一冊。もちろんこれは「生きがい」を手に入れるためのハウツー本ではないわけで、それらの明確な答えがここに記されているわけではない。ただ、神谷はさまざまな文献や自身の体験(ハンセン病患者との交流)を例として挙げながら、「生きがい」を失った人の話を、そしてその暗闇から抜け出し「生きがい」を得るに至った人の話を書き連ねていく。だから本書には「生きがい」の喪失と獲得に関するさまざまなバリエーションがあり、それらに向き合ってきた多くの人々の軌跡がある。読者は、それらを自身の問題と相対するためのヒントとして役立てることができるかもしれない。

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若い頃、「生きがい」について悩む人は多いかもしれないけれど、大人になっていくにつれ、その悩みは避けられていくようになるのがふつうだろう、と神谷は言う。一応まともな職業につき、家族を養うことができれば、あるいは、平和な家庭を築き、そこで健康に暮らせれば、それでまあOK、自分の生活は生きるに値するものである、と、ひとまずは自分の存在意義のようなものを感じていられる、というわけだ。

とはいえ、長い一生の間、「生きがい」についてまったくかんがえないで――あるいは、上記のようなある種の社会的役割だけを自分の「生きがい」だと感じ続けて――いられる人はほとんどいないだろう。社会的に重要な役割を果たすことができた壮年期を過ぎ、老年期に至ったときに、それまでの「生きがい」を失ってしまい、価値体系の転換を迫られる人、というのも多くいるはずだし、難病や愛する人の死、夢が断たれたり罪を犯したりすることで「生きがい」を喪失してしまうということもあり得る。そういった際に発せられることになるのは以下のような問いであるだろう、と神谷は言う。

一 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。 二 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。 三 以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。 四 一般に人生というものは生きるに値するものであるか。(p.33,34)

人間というのはみな、自分の生に意味やら価値やらといったものを感じたい欲求を持っているものだ。おそらくそれは、あらゆる生体験のなかにすでに意味や価値の判断というものが未分化な状態で含まれているから、すなわち、人間の知覚には必ず解釈が伴っているからだろう。そういうわけであるから、上のような問いに対し、私たちはそれぞれが採用している価値体系に基づいて、個人個人で答えを出していかなくてはならない。

ここで肯定的な答えが簡単に出せる人は、「生きがい」を感じやすく、生きていくことが楽な人物だということになるだろう。そして、劣等感を抱きやすかったり、他者からの肯定を簡単に受け入れられなかったり、自分で自分の生の意味を認めることができないでいる人は、「生きがい」を見出すべく、問いの答えを探求し続けなければならないということになる。

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さて、そういった「生きがい感」をもっとも強く感じられる人種というのは、「自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひと――いいかえれば使命感に生きるひと」だろう、と神谷は言う。目標や使命といったものに向かって自分の生を生かしていく、というそのことによって、生存が充実しているという感覚、自分の生が世界に何かしらの影響を与えているという反響の感覚――それは、社会的所属や承認などの欲求を満たすようなものであるだろう――を得られる、ということだ。だから、神谷によれば、「生きがい感」の希求というのは、未来性の欲求、現在よりも明るくてよい未来を目指し続けたいという欲求である、ということになる。

「生きがい」を喪失した状態には、不安や苦しみ、悲しみといったものが伴う。それらは直接的には、生理的なものであったり、社会的状況によって引き起こされたものであったりするかもしれないけれど、その内奥のところにはいわゆる「実存的不安」、「世界的不安」といったものがあるはずだ、と神谷は主張する。普段の生活のなかでは覆い隠され、直視しないでいられている、生存そのものに属する本質的な不安というものが、生きがい喪失状態において露見する、ということだ。こういった不安や、この不安から生じる、世界に対する否定的な態度、価値の喪失の感情、苦悩などといったものを、他者が慰めや同情や説教などといったものによって恣意的に操作することは不可能である。人間は、自分ただひとりでこの不安と相対し、自分なりの意味づけを行うことで、その態度を決定づけていかなければならないのだ。

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とはいえ、何しろ「生きがい」を失ってしまっているわけだから、その状態を受け入れ、自らの価値体系を変革する、などということがそう簡単にできるわけがない。それができていれば、「生きがい」を失ってなんかいないはず、という話だ。そのような、心の世界が壊れてしまった人、深刻な不安や苦悩や悲しみから抜け出すことができず、社会的な価値基準が受け入れられなくなっている人、自暴自棄になっている人にとってまず大切なのは、「短絡反応」を抑えることだろう、と神谷は書いている。「自分なんかもうだめだ」と己を見限ってしまうこと、「この状態がよくなるはずがない」と時間に対して見切りをつけてしまうこと。苦しみによって生じさせられるそういった短絡的な反応を抑えることからはじまって、徐々に時間をかけて受容へと進んでいくしかない、というわけだ。

そうして不安や悲しみ、苦しみを受け入れた上で、さらに実存的な空虚から抜け出していくためには、新しい「生きがい」が必要となってくるだろう。でなければ、その人は虚無とあきらめのなかで劣等感に苛まれ、人生からあぶれたままの状態になってしまう。

生きがいをうしなったひとに対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、だれにせよ、天来の使者のようなものである。君は決して無用者ではないのだ。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなければできないことがあるのだ。ほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。――もしこういうよびかけがなんらかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐ響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声をうけとめるであろう。「自分にもまだ生きている意味があったのだ!責任と使命があったのだ!」という自覚は彼を精神的な死から生へとよみがえらせるであろう。それはまさに、地獄におちた罪人にむかって投げかけられた蜘蛛の糸にひとしい。(p.176)

こういった新しい生存目標の発見は、何かのきっかけで急激に行われることもあれば、長く苦しい模索帰還を経てようやく得られる場合もあるだろう。そこはまあ、人それぞれだと言う他ない。どのような場合であれ、その新しい目標が、その人の内部にある、何か「本質的なものの線に沿ったもの」であれば、その人は「意味への意志」の欲求不満を解消し、生気を取り戻し、心底から生きることの喜びに満たされることであろう、と神谷は述べている。

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そういうわけで、「生きがい感」を得るための方法というのは人それぞれであるし、その得やすさというのも人によってばらばら、そして、その「生きがい感」をどのくらい強く感じ、信じることができるかということも、もちろん人によってまったく異なっている、ということになる。当然のことだ。だが、「生きがい」は誰しもにとって必要不可欠なものであるし、私たちは誰もがそれを感じる権利と能力とを持っている。それもまた、確かなことだろう。

本書の最後で、神谷は、「生きがい」を感じにくい人や、「あの人にはいったいどのような生きがいがあるのだろう?」などとかんがえてしまう人に対し、人間の存在意義というものを、こんな風にかんがえてみるのはどうだろう?と、ヒントを提示してくれている。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。(p.268)

大きな眼から見れば、病んでいる者、一人前でない者もまたかけがえのない存在であるにちがいない。少なくとも、そうでなければ、私たち自身の存在意義もだれが自信をもって断言できるであろうか。現在げんきで精神の世界に生きていると自負するひとも、もとをただせばやはり「単なる生命の一単位」にすぎなかったのであり、生命に育まれ、支えられて来たからこそ精神的な存在でもありえたのである。また現在もなお、生命の支えなくしては、一瞬たりとも精神的存在でありえないはずである。そのことは生きがい喪失の深淵にさまよったことのあるひとならば、身にしみて知っているはずだ――。(p.268,269)

利用価値や有用性といったものに依拠することのない「生きがい」や「存在意義」といったもの、それを誰もが互いに認め、確認し合うことができれば、この世界も多少は生きやすくなるのだろう。けれど、それは何と難しいことだろうか。