川上のデビュー作。ひたすら饒舌というか自意識をそのまま垂れ流しにしたような、大阪弁と丁寧語が混じった、どろっとした文体が特徴的な中編だ。語り手の「わたし」は、人の思考は脳ではなく奥歯でなされているとかんがえている不思議ちゃんで、生まれる予定のない自らの子供に宛てて手紙を書いてみたり、中学の同級生だった男子との架空の恋愛関係を妄想してみたり、歯医者でアルバイトを始めてみたりする。彼女の思考の中心にあるのは、「わたし」が「私」という自我として存在している、ということの奇妙さ、であり、その「わたし」がこの残酷な世界に否応なしに含まれており、そこから逃がれることができない、ということの過酷さ、だと言っていいだろう。
「わたし」の一人称小説ではあるものの、読者が「わたし」に共感したり感情移入したりするのはかなり難しい。「わたし」はどこまでもひたすらに弱くて冴えない、ぱっとしない、どころか、世間にからすれば醜くて鈍くさい、妄想癖が強くて思い込みが激しすぎる、はた迷惑で不気味な存在でしかないのだ。そんな「わたし」が抱える問題意識と、そんなものとはまったく無関係に動き続ける世界との摩擦によって、本作の物語は発熱していき、やがて残酷で無慈悲なクライマックスを迎えることになる。
私からは誰ひとり逃げられへん、逃げる必要もないかもしれんけど、逃げられへんのや私からは、これいったいなにがどうなってるんかこんな無茶苦茶なもんほかにあらへんやろが、世界に一個のなんでかこれが、なんでか生まれてぜったい死ぬてこんな阿呆なことあらへんやろうが、こんな最大珍事もあれへんやろが、なあ、なんでかこれのこの一致!わたしと私をなんでかこの体、この視点、この現在に一緒ごたに成立させておるこのわたくし!ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!!この形而中であることのこのわたくし!!このこれのなんやかや!(p.81-82) そうや、わたしは、いつもこうやって来たんやった、痛かったり悲しかったりどうしようもないもんがわたしに入ってきたときは、誰にも絶対潰されへん、わたしがどんなに傷つけられてもぜったい傷つけられへん私を入れた、勝手に決めた奥歯の中に、痛みの全部を移動させてぜんぶ閉じ込めて来たんやった、わたしは歯が痛くなったことがないのやから、そこに痛みを入れてしまえば、わたしはどっこも痛くなくなる、わたしはいっつもそうして来たんや、いっつもそうして来たのにな、なんでやろ、(p.98)読んでいてたのしかったりわくわくしたりというところはまるでないけれど、何か異様な迫力をもっているせいで、ついつい最後まで読まされてしまう、そんな作品だった。