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「狂人日記」/ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ

狂人日記 他二篇 (岩波文庫 赤 605-1)

狂人日記 他二篇 (岩波文庫 赤 605-1)

「狂人日記」は、九等官の中年男、ポプリーシチンという人物の日記という体裁をとっている。一人称の語りのみで、全編が構成されているのだ。ポプリーシチンは、ゴーゴリ作品の主人公らしく、自分(の社会的地位)に自信がないために、卑屈な態度と尊大な態度とが激しく入れ替わってばかりいる、超自意識過剰で不安定な性格の持ち主である。だから、「日記」の文章には、ただの自意識過剰なおっさんが少しずつ「狂人」と化していくさまが描かれていくことになるわけだけれど、彼は、役所の長官令嬢の飼い犬が人語を話し、手紙を書いている、などと妄想するところから始まって、ついには自分は不在のスペイン王、フェルジナンド八世だと信じ込むまでに至ってしまう。

今日はたいへんめでたい日だ!スペインに王さまがいたのだ。見つかったんだ。その王さまというのは――このおれだ。今日はじめて、それがわかった。うちあけていえば、まるで稲妻が照らすように、ぱっとそれがわかった。いったい、どうしてこれまで自分が九等官だなんて思っていられたのか、わけがわからぬ。あんなとほうもない狂気じみた空想が、まったくどうしておれの頭へ浮かびえたのか?(p.206,207)

それから、おれはまっすぐ長官の私邸へとでかけた。長官は不在だった。でてきた下男め、おれを通そうとしないので、おれが一言、かーっとたしなめてやると、すっかり恐れいってしまいやがった。その隙におれはずんずん化粧室へと通っていった。令嬢は鏡に向かってすわっていたが、おれを見るとさっと立ちあがって、たじたじとうしろへさがった。だが、おれは自分がスペインの国王だということはあかさなかった。ただ、彼女には思いもうけぬ幸福がやってくるであろうこと、よからぬ奴らがあれこれとたくらみをしても、末はかならずいっしょになれるということだけを言って聞かせた。そのほかはまだなにも言いたくない気がしたので、そのまま戸外へでていった。(p.209,210)

内面化された他者の目線が、主人公を内側から駆り立て、傷つけ、ついには狂気の淵へと追いやってしまう…という流れは、ドストエフスキー『二重人格』の主人公、ゴリャートキン氏の場合と同様だ。ただし、そこはゴーゴリ、本作からは『二重人格』のような崩壊感、息苦しくなるような敗北感というのはほとんど感じられない。もちろん、ハイペースで狂気の度合いを増していく文章には不気味なところがあったりもするのだけれど、でも、それ以上にギャグみたいなおもしろさがあるのだ。(たとえば、ポプリーシチンは精神病院のことをずっと「スペイン」だとおもっており、「ここは変わった国だ…みんながみんな丸刈りの髪型をしている…」なんてひとりごちていたりする。)

本作について、批評家の石川忠司がこんなことを書いていた。

ポプリーシチンの行動はあまりに情けなくて「文学」的に解釈する余地を残さない。彼の心からの願望は、他人に認められたいという「下品」なものだが、そのために具体的に何をするでもなく、しかし思いは内面だけでヒートしてついに発狂したのだった。そのあげく、精神病院にぶち込まれる。 つまり、彼はいかなる自己規制も眼中になく、己れの「見苦しさ」に忠実にしたがって、全力投球、渾身これ熱意で「矮小」な生に燃え上がったのだ。「人生」に照らして「立派」であるより、彼個人として「卑小」であるように行動したのである。(『極太!!思想家列伝』/石川忠司 ちくま文庫 p.37,38)

ゴーゴリこそ文学史上、最も初期に現れた文体論的なパンクスだったのである。(『極太!!思想家列伝』/石川忠司 ちくま文庫)

ポプリーシチンには、「文学性」の欠片もなければ、「人生」の「重み」やら「深さ」やらといったもので定義づけられるような何らの価値も見出すことはできないが、こういった、作品の「非文学性」、「卑小さ」、「低俗さ」といったものを全面に押し出し、従来の「文学的」的な要素というやつらを徹底的にコケにしてみせるゴーゴリの姿勢は、まさに「文体論的なパンクス」じゃないか、というわけだ。

「文体論的なパンクス」なんて、なかなかかっこいいしインパクトのあるフレーズだけれど、個人的には、ゴーゴリからはあまり「パンク」な印象は感じ取れないようにおもう。パンクスっていうのは、自分が「パンク」であることに自覚的なものだろうけど(気がついたらパンクスになっていた、ってことはないでしょう?)、ゴーゴリの場合はもっと天然な感じがする。なんて言ったらいいのかな、「反体制!」とか、「文学性なんかくそくらえだぜ!」みたいなことをおもっているようにはあんまり見えないのだ。「肖像画」の後半部分や、『死せる魂』の第二部以降なんかを読んでいると、やっぱり、ゴーゴリはいわゆる「文学的」で「高尚」なもの、「真善美」的なるものを追求しようとしているように感じられる(少なくとも、そういった要素を批評的に利用しようとしているようには見えない)。

ただ、彼は、なにしろ人間を観察する能力が飛び抜けすぎていたせいで、そして、それをねちねちとひたすら緻密に描写する根性がすわっていたせいで、結果的に、人間の「卑小」で「低俗な」面を全面に押し出した作品ばかりが出来上がってしまったのではないか。で、ちょっぴり皮肉なことだけれど、おもしろいのはそういった彼の資質が存分に生かされた作品、「真善美」からかけ離れた方の作品なのだ。そんな風に感じる。(「肖像画」の後半部分や、『死せる魂』の第二部以降の退屈さというのは、ゴーゴリ自身の資質と志向性との乖離が原因であるようにおもう。)もちろん、「狂人日記」は、石川も書いている通り、そんなおもしろい方のゴーゴリの代表的な一作だと言えるだろう。

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)