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『本はどう読むか』/清水幾太郎

本はどう読むか (講談社現代新書)

社会学者の清水による、本の読み方に関するエッセイ。清水の読書遍歴から、情報整理の仕方、どんな本を読むべきか、本の内容を忘れないための工夫、洋書の読み方、などなど、この手の「読書論」系の本で扱われがちなトピックについては大方書かれている。1972年に出版された本だけれど、内容的にはぜんぜん古びていないし、『論文の書き方』で有名な清水なだけに、当然文章も上手い。この手の本のなかではひさびさに当たりを引けたな、とおもいつつ読んだのだった。

本を読むと、読者の心のなかにはいろいろな観念が蓄積されていくわけだが、単に読んだというだけでは、それらの観念は無秩序に蓄積されていくだけに過ぎない、と清水は言う。読者と著者とでは、頭のなかにある観念の体系が異なっているからだ。では、どうすれば読者は本の内容を自分のものにすることができるのか?

清水は、モンテーニュが自身の記憶力の不足を補うべく、読み終えた本の末尾に700文字程度の感想を書き記していていた、という話を引いて、感想を書くことが、本を読んで理解しようとする上では非常に優れた方法であると言う。

書くというのは、この無秩序に蓄積された観念の一つ一つを適切な言葉で表現し、これらの言葉を或る秩序に従って順々に排列するという行為である。この行為は、一般に、読書とは比較にならぬほど大きな精神的緊張を伴う。この緊張は、受動的なもの、パッシヴなものでなく、能動的なもの、アクティヴなものである。読書の感想を書くと言っても、書物の完全な丸写しでない限り、大きな精神的緊張が必要である。
私たちは、表現の努力を通して、初めて本当に理解することが出来る、それを忘れて貰いたくないのだ。本を読みながら、「なるほど、なるほど」と理解しても、そういう理解は、心の表面に成り立つ理解である。浅い理解である。本を読んで学んだことを、下手でもよい、自分の文章で表現した時、心の底に理解が生れる。深い理解である。深い理解は、本から学んだものを吐き出すことではなく、それに、読書以前の、読書以外の自分の経験、その書物に対する自分の反応……そういう主体的なものが溶け込むところに生れる。それが溶け込むことによって、その本は、二度と消えないように、自分の心に刻み込まれる。自分というものの一部になる。受容でなく、表現が、真実の理解への道である。
書物の意味は、その書物そのものに備わっているのではなく、書物と読者との間の関係の上に成り立っているものである。

本を読んで得られた観念というのは、あくまでも借りものであって、まだ自分の血肉にはなっていない。だから、そのままの状態では、それを他人に伝わる形でアウトプットすることなどできはしない。自分の言葉、自分の文章で他人に対して語ることができるよう、アウトプットしようとする努力――「精神的緊張」を伴う「本気の努力」――を通して、頭のなかに蓄積された観念を自分の視座、自分の世界観のなかに取り込むこと、そうして、ある程度踏み込んだ感想を他人にも理解できるような文章にすること、そういった行為によってこそ、その本を本当に理解することができる、ということだ。

そういえば、岡田斗司夫は、ノートを書くことは、「あたりまえかもしれないことを、自分でいちいち言語化する」だと書いていた。「自分でいちいち言語化」することではじめて、本から得た知識なり観念なりというものを、自分なりに意味づけできる、自分のなかに取り込める、ということなのだろう。俺もせめて読んだ本の感想くらいはサボらず書くようにしなきゃだな…と改めておもったりしたのだった。