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『砂の女』/安部公房

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

主人公の男は、昆虫採集のために休暇をとって人里離れた砂丘に向かう。そこには砂に埋もれかけた小さな村があり、男は一夜の宿を求めてある家を訪れる。家には女がひとり暮らしているのだが、なにしろそこは砂穴の底に位置する家、放っておけばたちまち砂に埋れてしまうので、その女がすることはといえば、降り積もる砂をひたすら掻き出し、家が潰れないようにするというただそれだけである。翌朝、男が旅経とうとすると、家を出るための縄梯子がなくなっている。村人に騙され、砂穴の底に軟禁されてしまったのだ。男は砂穴から脱出しようとあらゆる手段を試みるが、ことごとく失敗し、女とともに砂を掻き出す生活を続けることになる…!

まったくもって気の滅入る、不条理極まりない話だけれど、一読してまずおもうことは、こんな風に「砂」をひたすら掻き出し続けること、「賽の河原の石積みたいなまね」をし続けることこそが、じつは生きるということなんだろうか?ということだ。ほんの少しの水と食料、金を得るために、ひたすら砂を掻き出し続け、砂のなかで眠る。しかも、この「砂」は他者から不意に押し付けられる形で男のもとにもたらされるのだ。これはどうかんがえても辛い。あんまりだ。奴隷労働の強要だ。

だが、男の独白によれば、そもそも彼はそれまでの生活、繰り返される怠惰な日常にすでにじゅうぶん過ぎるくらいうんざりしてしまっていた、というところがあるらしい。つまり、単調な日常生活において、男は自分の存在意義をじゅうぶんに感じることができず、精神的な充足感が得られていなかった、それもあってわざわざこんな僻地にまで足を運んだ、ということであるらしい。そういう観点からかんがえてみると、かつての日常と、砂穴での生活には、本質のところでは大きな違いはない、ということになるのかもしれない。つまり、どちらにおいても、逃れようのない日常の繰り返しがあり、果てしない労働があり、ごくわずかな喜びがあり、性欲の放出があり…という感じで、砂穴という物理的な束縛の差はあれど、それ以外ではあまり変わりない、ということになるのかもしれない。男にとっての「脱出すべき外部」なるものは、どこにも存在しないのではないか?義務や無為や無力感からはどこまで行っても離れられないのではないか??そんな風にもおもえてくる。

そうして男は、理不尽であり不条理でしかなかったはずの砂穴での生活にも慣れていき、ついには「繰返される砂との闘いや、日課になった手仕事に、あるささやかな充足を感じ」るようにすらなっていく。そうして、とうとう逃げるチャンスが巡ってきても、自ら脱出しようとはしなくなってしまう。自らの意思で砂穴での生活を続けるようになってしまうのだ。エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは『自発的隷従論』で、「たしかに人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである」と書いていたけれど、まさにこの「人間の自然」を体現している状態である。もっとも、砂穴のなかに自らの意思でもって居続けるというのも、ひとつの自由意志の発露である、ということはできるのかもしれない。つまり、自ら不自由を選ぶこともまた自由の内である…というような。

全編に渡る悪夢的な状況、ひたすらに理不尽で不条理な世界観はカフカ的と言っていいだろうけれど、男と「砂の女」との関係性など、なんとも湿っぽくねっとりとしたエロスが執拗に表現されるところは、かなり日本的という感じがする。また、寓話的、神話的なストーリー展開でありつつも、筆致はあくまでもリアリズムのそれで、尋常でない喉の渇きや、ざらざらしたりじっとりしていたりする細かな砂が肌に張り付くような感触、砂にまみれた女の肉体の生々しさなど、身体感覚が重視されているのも本作の特徴だと言えるだろう。

「しかし、これじゃまるで、砂掻きするためにだけ生きているようなものじゃないか!」
「だって、夜逃げするわけにもいきませんしねえ……」
男はますますうろたえる。そんな生活の内側にまで、かかわり合いになるつもりはなかったのだ。
「できるさ!……簡単じゃないか……しようと思えば、いくらだって出来るよ!」
「そうはいきませんよ……」女は、スコップをつかう動作に呼吸を合わせて、さりげなく、「部落がなんとか、やっていけるのも、私らがこうして、せっせと砂掻きに、せいをだしているおかげなんですからね……これで、私らが、ほうりだしてしまったら、十日もたたずに、すっかり埋まっちまって……次は、ほら、同じように裏手のならびに、お鉢がまわっていくんです……」(p.46)