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『風の歌を聴け』/村上春樹

風の歌を聴け (講談社文庫 む 6-1)
高校生のころの俺のバイブルだったこの小説を久々に読み返していたんだけど、自分がこの作品からどれだけあからさまに影響を受け、方向づけられてきていたか、ってことにいまさら気がついて本当にびっくりした。いままで自分の頭でかんがえたことなんて何ひとつないんじゃないか、とかちょっとおもったくらい。ビールばっかり飲むようになったのだって、きっとこの小説のせいに違いない。まったく、どれだけ入れ込んでたんだよって感じだけど、まあとにかく、村上春樹の処女作、『風の歌を聴け』は、多くの人にとって(きっと)そうであるように、俺にとってもたいせつな小説だ。1970年の夏、地元に帰省した大学生の「僕」の、何もないような18日間を中心とした物語。

短い断章がいくつも連なった構成で、シーン同士は無作為な感じに繋ぎ合わせられている。断章のなかにはアフォリズムっぽいものも多いし、章の連なりのなかから何らかのイメージ、象徴性のようなものが読み取れるようにおもえることもあるのだけれど、作品そのものはその象徴性をジョークとして紛らわせてしまおうとしているみたいに見える。

「左の猿があんたで、右のがあたしだね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。」(p.15)

その態度は、何かを決定づけ、確定してしまうことを巧妙に避けているようでもある。

もっとも、作品全体を覆っているのは、ノスタルジア、あるいは喪失の感覚といったもので、それはどうしたって感傷的で甘ったるいものだ。

微かな南風の運んでくる海の香りと焼けたアスファルトの匂いが、僕に昔の夏を想い出させた。女の子の肌のぬくもり、古いロックン・ロール、洗濯したばかりのボタン・ダウン・シャツ、プールの更衣室で喫った煙草の匂い、微かな予感、みんないつ果てるともしれない甘い夏の夢だった。そしてある年の夏(いつだったろう?)、夢は二度と戻っては来なかった。(p.101,102)

いま久々に読み返してみると、こういうセンチメンタル過剰な部分がちょっと気になる。ほとんど美意識的に、ナルシスティックにノスタルジアに溺れているようなこの小説の文章からは、自我が世界を取り込んでいるかのような印象も受ける。

ただ、この小説のことばは、書き手自身とぴったりとくっついてはいない。書き手とことばとの間には、ちょっとした距離がある。その距離感、少し突き放すような感じが、おそらく“乾いたタッチ”だとか“クールな感覚”なんて形容されるものに結びついているのだろう。

その距離感は、主人公の「僕」が、29歳の「今」から10年程前を振り返っている、という構成によっても強められている。つまり、「僕」は、さまざまな幻滅や喪失を潜り抜けたうえで、いま、『風の歌を聴け』という小説を書いているわけだ。

結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。(p.8)

僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。(p.12)

なんて書いている「僕」は、しかし、読者をはげまし、勇気づけるような存在でもある(それにこの小説は、なんだかんだ言っても教訓的な性格が強いとおもう)。このシニシズム、諦念を抱え込んだうえで、それでもなお書いていこうとする態度、「ものさし」を使って自分と他者との距離を測っていこうとするその手つきに、俺はいまでもこころを強く揺さぶられてしまう。“それでもなお”ってところが重要だ。それは単にウェットなところを際立たせるためのドライな部分ということに過ぎないのかもしれない。でも、なんていうか、そんな感覚こそが信頼感を与えてくれるポイントになっている気がする。まあ、いま読み返してみて、この小説の文章の気取りっぽさや、自意識の強さに反発するきもちがぜんぜんないとは言えないのだけれど…。

「僕」の態度は、結局のところ、生ぬるいデタッチメントなのかもしれない――というか、おそらくそうなのだろう――けれど、その感覚は高校生のときと変わらず、いまの俺にとってもたいせつなものであり続けているらしい。まあ、もうとにかく何度も何度も読んだ小説だから、文章は頭のどこかに残っているし、だから久々に読み返してみても、昔読んでいたときのきぶんを辿り直しているような感じがあるのはあたりまえかもなー、とはおもう。ただ、いつまでも続くうんざりするくらい暑い夜や、朝の海、古墳の緑、夏の終わりのせつなさのイメージだって、あるいは「何故本なんて読む?」「何故ビールなんて飲む?」なんて問いかけにしたって、もう本当に自分でもあきれるくらい、はっきりと頭のなかに染みついてしまっているのだ。