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『職業としての政治』/マックス・ヴェーバー

第一次世界大戦後の1919年、ヴェーバーがミュンヘンの学生団体向けに行った講演をまとめたもの。まずヴェーバーは、トロツキーの言葉を引いて、「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」と言う。

今日では、次のように言わねばなるまい。国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当的な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である(p.9)

そして、人間共同体の秩序を巡る権力関係こそが「政治」であるわけだから、我々にとって「政治」とは、国家内外の「正当的な物理的暴力行使」のための権力の配分関係に影響を及ぼし、その分け前にあずかろうとする努力のことなのだ、とヴェーバーは続ける。

近代国家は、この暴力行使の権力を独占するべく、その手段を国家の指導者の手に集めている。そのため、政治家は、不断に「闘争」を行うことで、権力を追求し続けなくてはならない。「闘争」とは、だいたいにおいて、「善い」目的を達成するために「道徳的にいかがわしい手段、少なくとも危険な手段」を用いて行われるものであるし、政治にとって決定的な手段というのはつまるところ暴力である。

だから、政治家とは、常に特別な倫理的要求にさらされている存在であり、また、本質的に、自らの権力行為を倫理的に免責することのできない存在である、ということになる。そういった政治家の性質に対して、一般的な見地から道徳的にどうこうという批判を加えてみてもあまり意味がない。「政治にタッチする人間は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶもの」なのだ。

だからこそ政治家は、心情倫理ではなく、責任倫理に根ざす存在でなくてはならない、現実世界の倫理的な非合理性に耐えながら、自らの掲げる理想を目指して動き続ける情熱と責任感と判断力とを持ち続けなければならない、ともヴェーバーは語っている。

情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。(p.78)
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!(デン ノッホ)」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職(ベルーフ)」を持つ。(p.105−106)

情熱、責任感、判断力、そして、未曾有の事態において「それにもかかわらず!」と言い切る自信…これらを日本の政治家に期待することができる日など、果たして訪れたりするのだろうか?とおもってしまう。