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『読書について』/アルトゥール・ショーペンハウアー

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

ここ数か月というもの、本読みをすっかりさぼってしまっていた。本を読まないでいるとブログを更新しようという欲求がなくなっていき、ブログを書かなくなると文章を組み立てる能力が低下していき、文章を書く能力が下がると物事をかんがえる力が失われていき…という負のスパイラルに陥っていることにようやく気づいたので――いや、気づいてはいたのだけれど、それをきちんと解決しようという気分にならなかった、というのが正確なところだろう――、ひさびさに新しく本を読んでエントリを書いてみようとしている。こうしてしばらくぶりに文章を書こうとしていると、いかに自分のなかに蓄積がないか、いかにいままで場当たり的な文章しか書いてこなかったか、ということが身に沁みて感じられるような気もする。

さて、本書におけるショーペンハウアーの主張というのは、一般によく知られているものだろう。以下のようなものだ。

本当に真剣にあらかじめ考える少数の書き手の中に、テーマそのものについて考える、きわめて少数の人がいる。その他の者は、書物について、他人の言説について考えをめぐらすだけだ。つまりかれらは考えるために、他人の既存の思想から、より自分に親しく強い刺激を必要とする。よそから与えられた思想がかれらのもっとも手近なテーマになる。したがってたえず他人の影響下にあり、そのために決して本来のオリジナリティーは手に入らない。これに対してテーマそのものについて考えるきわめて少数の書き手は、テーマそのものに刺激されて考える。だから思索がじかにテーマへ向かう。こうした書き手の中にしか、不朽の名声を博する者はいない。(p.35)

読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。他人の心の運びをなぞっているだけだ。それは生徒が習字のときに、先生が鉛筆で書いてくれたお手本を、あとからペンでなぞるようなものだ。したがって読書していると、ものを考える活動は大部分、棚上げされる。自分の頭で考える営みをはなれて、読書にうつると、ほっとするのはそのためだ。だが読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない。読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から引き上げていったら、いったい何が残るだろう。(p.138,139)

俺がいま実感しているのは、まさにこの「読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から引き上げていった」状態であるようにもおもえる。ショーペンハウアーの主張は、「だから、読書ばかりしているようではだめ。ちゃんと自分の頭で考えなさい」などという風に解釈されることが多い気がするけれど、凡人の自分としては、「本来のオリジナリティー」だとか、「不朽の名声」とかはとりあえず置いておいて、せめて「他人の思想」をまた少しでも多く駆け巡らせておかないとだよね…なんていう風におもったりもする。なんていうか、いま、自分ってものすごく空っぽ、という感じがして仕方がないのだ。