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『バーデンハイム1939』/アハロン・アッペルフェルド

イスラエルの作家、アハロン・アッペルフェルドの中編小説。ヒトラーの進行を数カ月後に控えた1939年の春、オーストリアはウィーン近郊のバーデンハイムなる架空の町を舞台にしている。バーデンハイムは保養地のような小さな町で、住人やそこに集う人物の大半は、中産階級に属する、いわゆる同化ユダヤ人たちである。

同化ユダヤ人なので、彼らの多くは自分たちがもはやユダヤ的ではないこと、もうすっかりドイツ的であることに誇りを持っていたりするのだけれど、まさにそのドイツ的なるものによって、彼らの運命は決定づけられてしまう。物語は、バーデンハイムの人々の行動が少しずつ制限されていく様をゆったりとしたテンポで描いていき、彼らがポーランドへの強制移住のための列車に乗せられるところで、ぷっつりと途切れるように終わる。

だから本作には、いわゆるホロコーストものによくある、強制収容所での生活やガス室送りの恐怖などに関する描写は一行も含まれていない。わかりやすく感傷的なエピソードはほとんど発生せず、ひたすら淡々とした叙述が続いていくために、いくら読み進めていっても、蜃気楼とか夢のような、曖昧でぼうっとするような印象があるばかりなのだ。しかしそれでいて、作品全体を覆う空気はやはり重苦しく、漠然とした不安感や、決して抗することのできない巨大な流れが迫ってくる感触といったものははっきりと感じられる。どこが恐い、ってピンポイントで言うことはできないのだけれど、背中を指でそうっとなぞられたときのような、ぞわぞわっとする感覚があるのだ。

だれかが、悪夢から目覚めたみたいに、「ここはどういうところなんだろう」と訊く。 「バーデンハイムという保養地、音楽祭の町です」 「じゃ、コンサートはどこであるんです?」 「ホールでですよ」 そう聞かされて、その人は生き返ったような表情になる。 夕方近く、人々はホテルの一階に集まってきて、パッペンハイム博士が彼らに話をする。ここ数か月のあいだに彼の表情もずいぶんと変わった。彼は偉大なるポーランドについて語る。これからわれわれが移っていくあのすばらしい世界について。ここではもう先が見えている。ここはすっかり空っぽになって、なにも残っていない。(p.118,119)

また、本作は文体もなかなか特徴的だ。群像劇のような感じで、数行おきに焦点が当てられる人物が変わっていくのだけれど、これがまあ何とも読者を落ち着かない気分にさせ、不安感を誘うのだ。たとえば、こんなところ。

一晩明けて、ホテルは動かしがたい沈黙に包まれていた。給仕女はまだ寝ていたが、彼女の眠りを薄暗い陰が覆っていた。音楽家たちは芝生の上に途方に暮れた羊の群れのようにかたまっていた。時計台が王立公園に長い影を落としていた。シュッツは女学生のそばを離れなかった。彼は彼女のきっかりと見開いた視線がこわかった。なにもかもその目で吸収しているみたいだった。あの混血の給仕は、とても人好きのする女なんだけど、なにかひどく胸をふさぐような不安感につきまとわれているらしいのが困ったことだ、とシュッツは言い聞かせた。 「でもあの傷は?」と、彼女は突然訊いた。 シュッツは、傷は大変は大変だったけど、大事にはいたらなかった、と彼女の気を鎮めようとした。 カールはソファに掛けて照明をした養魚槽を眺めていた。そこへ給仕長がやってきて、前年その養魚槽のなかで起こった恐るべきことを語った。とある自然愛好家がカンビウム系の青い魚を持ってきて、それをいっしょにいれるようホテルの支配人にしきりと勧めた。支配人はその青い魚にはいまひとつ自信が持てなかったにもかかわらず、結局言われるままにした。青い魚は、はじめの数日は、いかにも楽しそうにしていたが、ある晩ほかの魚に襲いかかり、皆殺しにしてしまった。翌朝、水槽の底は死骸の山だった。(p.61,62)

うーん、はっきり言って、読みにくい。この文体の狙いや、これがもたらす効果がどういったものなのか、俺にはいまいち咀嚼できていないのだけれど、少なくとも、この絶えず動き続けるカメラのような文体のために、読者は登場人物たちの心情と同期することを妨げられ、よりどころを持たない不安定な状態のまま読み進めていかなくてはならなくなる、というのはたしかなことだろうとおもう。