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『ミルクマン』/アンナ・バーンズ

独特な文体が魅力的な、アンナ・バーンズのブッカー賞受賞作。バーンズの出身地である北アイルランドのベルファストとおぼしき名前のない町を舞台に、主人公である18歳の「私」(趣味は歩きながら19世紀の小説を読むこと)が反体制派の有力者たる「ミルクマン」なる男にストーカーされたり、「メイビーBF」との関係に悩んだり、早くその辺の男と結婚しろとうるさい「母」をいなしたり、「義兄その3」とランニングしたり、「毒盛りガール」に毒を盛られたり、「サムバディ・マクサムバディ」に殺されかけたりする物語。

町は常に異様な緊張状態にあり、監視と密告、盗撮に盗聴、爆発や狙撃が日常そのものと化した、まさに全体主義的なディストピア社会そのものという感じだ。もっとも、「私」を含めた町の住人たちは、みなそれぞれのやり方でその過酷な状況に麻痺/適応して日々の生活を続けており、だから、彼らのふるまいというのはなんだかシュールなものにも見える。この町では、疑心や噂話や暴力や危険こそがありふれたものなのであって、例えば本を読みながら歩くなどということーーそれは周囲の世界に対するあからさまな無関心、個人的な世界への没頭を表明するものだーーは完全に異常な行為なのだ。

物語はすべて「私」の恐ろしく饒舌な一人称でもって語られていく。この語りのグルーヴがなかなかに独特で、それが本作の最大の特徴だと言っていいだろう。「私」は、上記のような息詰まるような日常に慣れてこそいるものの、心を開いて相談できる人はおらず、ミルクマンの登場によって徐々に心身ともに弱っていってしまうのだけれど、ただ、彼女のひたすらに饒舌な語り口は、その饒舌さ、語りたい欲の奥底にある、強烈に外向きなベクトルを感じさせるものでもある。それがこの重苦しくヘヴィな物語を、妙にポップでユーモラスなものにしてしまっているのだ。結果、本作は、全編通してものすごくシリアスなことが起こりまくっているはずなのに、どうにも笑えてしょうがない、という、なかなか他にはないような雰囲気の小説になっている。

こうして私は「分からない」の一言で、自分の身を質問から守ろうとした。そうすれば挑発に乗らず、消耗せず、ショックで口を滑らせることもない。必要最低限のやり取りしかせず、なるべく思考を止め、抑制した。公式のコメントも、象徴的なコメントも、大げさな身振りも、血気にはやった興奮も、その場に流れる熱情も、新たな展開も、悲しみも、怒りも、パニックも、何もなし。抑えに抑えた私がいるだけ。空っぽな私。誰とも交わらない私。遠回しのあおりや、たくさんの仄めかしや、もったいぶった詮索にもかかわらず、結局彼らは何一つ私から引き出せない。私は彼らに何の成果も与えなかった。それでいい。だって世の中には真実を伝えるに値しない人がいるから。そのことを、私はすでに知っていた。真実を伝える価値がない、高潔さを欠いた人たち。そういう人には、嘘をついてもいいし、話を省いたっていい。いいに決まっている。少なくとも私はそう思っていた。もちろんそれなりの苦労もあった。彼らの言葉の隠された意味や、合図としての目の動きや、私を中傷しようとしていることを、彼らは私に気づかれていないと思っている。だから私も「分からない」と言うときには、気づいていないふりをしなければならない。もう一つ、この一言を発するときには決して対決姿勢を見せず、それでいて相手との間には一定の距離を保つことが必要だ。しかもその距離に気づかれたらおしまいなので、うまく隠さなければならない。誰かがあの時代、あの場所で彼らに闘いを挑んだとしよう。するとその人は、大きな集団を敵に回したことで、ひどいいじめを受け続けることになる。そんな状態に飛び込んでその影響に堪えるだけの強さが、当時の私にはなかった。私が彼らを見透かしていることを知られてはならない。私の「分からない」がほんとうは「お下がり!家にお帰り!失せろ!失せてしまえ!」を意味していることは隠し通さなければ。(p.187)

本当に全編がこのテンション、この語りの密度なのだ。正直、読んでいると疲れてしまうくらいなのだけれど、ただ、なんとも癖になる感じのグルーヴがあるのは認めざるを得ない。