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『隣の家の少女』/ジャック・ケッチャム

最近映画化されたこともあって、何かと話題の『隣の家の少女』。まあ正直言って、おもしろい小説、たのしい読書というわけにはいかなかったけれど、一息で読ませてしまうような牽引力を持った作品だった。

解説で訳者の金子浩が書いている通り、この物語には"裏スタンド・バイ・ミー"的な要素が多分に含まれている。50年代アメリカの郊外の町には得体のしれない悪が潜んでおり、それがグロテスクで残虐な事件を巻き起こしていく、って設定からして、かなりスティーヴン・キング的だ。ただ、本作とキングの諸作とを大きく隔てているのは、悪の要素と対峙するための希望の光みたいなものがまったく示されていない、ってところだろう(キングの場合だと、善悪の対決が物語の主軸になることが多いようにおもう。対決の結果はどうであれ)。数少ない善玉キャラである主人公のデイヴィッドにしたって、性への好奇心、怖いもの見たさ、残虐なものにどうしたって惹かれてしまう無邪気さでもって、片足以上は悪の側に重心を置いてしまっているのだ。

"隣の家の少女"メグが虐待らしきものを受けている、とはっきりと認識しながらも、それに結びつく感情にフィルターをかけているかのようなデイヴィッドの語り口は少し不気味なくらいで、それがこの作品独特の味わい(じつに舌触りが悪い!)とリアリティとを生み出しているように感じられる。

彼女を助けようとするべきだったのか?葛藤があった。メグに魅力を感じていたし、好いていることに変わりはなかったが、ドニーとルースはずっと古くからの友人だった。そもそもメグは助けを必要としているのだろうか、とわたしは考えた。なんといっても、子供は叩かれるものだ。こづきまわされるものだ。これからどうなるのだろう、とわたしは考えた。(p.183)


もはやわたしにはどうにもできなかった。あるいはそう思っていた。
おかげでほっとした。
うしなったものがあるとしても――メグの信頼、さらにはたんにいっしょにいられなくなったこと――わたしはさして気にかけていなかった。となりの家できわめて異常な事態が起きたことはわかっていたが、しばらく距離を置いて、ひとりで考えを整理したかったのだろう。(p.184)

読んでいてたのしい気分になるような物語でないことはたしかだけれど、読み終えたときには、デイヴィッド的なるものの居場所が自分のなかにあることも、また確実なことなのだろうとおもわないではいられなくなる。なぜって、自分にしたって、物語に引き込まれるようにして一息で、この物語を読んでしまわないでははいられなかったのだから。

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ところで、そんな胸の悪くなるような本書だけれど、一か所だけ、おもわず笑ってしまったところがある。スティーヴン・キングが寄せている解説のなかの、こんな一節だ。

実際、現役のアメリカ人作家で、ジャック・ケッチャム以上にすぐれた、重要な作品を書いている、とわたしが絶対的に確信できるのはコーマック・マッカーシーただひとりである。不遇なペーパーバック・オリジナルの作家に捧げるにしてはたいそうな褒め言葉かもしれないが、けっして誇大宣伝ではない。好むと好まざるとにかかわらず(実際、本書を好まない読者も多いだろう)、それは真実なのだ。(p.420)

むはー!キングテンション高いよ、高すぎる。たしかにマッカーシーは重要な作家に違いないだろうけど、いくらケッチャムをプッシュしたいからって、これはさすがに言い過ぎってものだろう。