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『通話』/ロベルト・ボラーニョ

チリはサンティアゴ出身の作家/詩人であるロベルト・ボラーニョの短編集。ボラーニョの作品ははじめて読んだのだけど、描写らしい描写というのがほとんどなく、物語性もかなり希薄。背景もストーリーも輪郭がはっきりしていないのだ。その代わり、文章自体はきわめて率直で、まわりくどいところはないし、スピーディでもある。各短編で描かれているのは、登場人物たちの人生の断片からにじみ出る、その寄る辺のなさといったところだろうか。

本作は、「通話」「刑事たち」「アン・ムーアの人生」の三部構成となっており、各部にはそれぞれ独立した4、5編の短編が収められている。「通話」は、二流作家や三流詩人が、誰からも認められないまま、ひたすら愚直に、しぶとく作品を書き続ける話。みんな冴えないもの書きばかりだけれど、彼らの書くことへの執着心と、その行き詰まった人生とに向けられるまなざしは、決して冷たくはない。これらの作品には、ボラーニョの自虐的な自画像、というような意味合いがあったりもするようだ。「刑事たち」は、チリやスペインの政情を背景にした、歴史の暗闇に足を突っ込んで抜け出すことができなくなった者たちの物語。「アン・ムーアの人生」は、どれも女性を描いた作品。不安を抱えた女性たちを主人公に、さまざまな話法を駆使してその人生の不運とつかの間の幸福とが語られていく。

『通話』の登場人物たちは、人生で何度か訪れる決定的な転機、曲がり角に際して、おしなべて対応に失敗する。大切なはずの友人や恋人との関係は破綻し、流されるままに土地から土地へと移動を続けるうちに、自分自身でも何をどうしたらいいのかわからなくなってしまう。そうして最後に残るのは、かつてあったはずの幸福な記憶の残滓、どうしても捨てることのできない執着心、すっかり煤けて黒ずんでしまった希望のかけらといった、いかにも頼りないものばかり…ということになってしまうのだ。

とはいえ、彼らが沈黙してしまうことはない。ある者は淡々と己の過去を語り、ある者はひたすらに書き続ける。自分自身で語ろうとしない者については、その友人や知り合いが彼らの人生を――まるで当人の代わりに生きたかのように雄弁に、あるいは、その隠された過去にやじうま的な興味を抱きながら――語る。読者は、彼らの諦めの悪さや縋りつくようなしつこさ、語ることによってその生を再構築しようという試みの無謀さ、かっこ悪さを、ときには呆れて苦笑しながら、ときには感嘆の念に打たれながら、読んでいくことになる。

実際、エンリケはカタルーニャ語の基礎文法もろくに分かっておらず、本当はスペイン語であろうがカタルーニャ語であろうがまともな文章一つ書けなかったのだが、それでもなぜか、僕は今でも彼の詩をいくつか覚えていて、それを思い出すときには自分自身の青春を振り返るときにも似た気持ちになる。詩人志望だったエンリケは、詩人になるために可能なかぎりの努力と気力を傾注していた。その粘り強さ(西部劇に出てる悪漢のように、ヒーローの銃弾に当たって蝿のように倒されていきながらも自殺的な執拗さで目的を達しようとする、そういう盲目で他意のない粘り強さ)が、結果としてエンリケを感じのよい人間に仕立て上げ、若い詩人と年老いた売春婦のみが感知しうるある種の文学的聖性とでも呼ぶべき独特の雰囲気を彼に与えていたのだ。(p.40)

アメリカから戻ってきとき、アンはいくつかの荷物を持ち帰っていた。ある日の午後、それを見せてくれた。サンフランシスコに着いた直後からビルとラルフに初めて会うまで書き続けていた日記だった。百ページほどのノートが全部で三十四冊、ページの両面に小さな字で走り書きされていて、イラストや図面もたくさんあり(最初に見たとき、何の図面なのかと尋ねると、理想の家、想像上の都市、想像上の町、女がたどるべきだが自分はたどれなかった道などの図だという)、何かの引用もあった。(p.236)