- 作者:楠木 建
- 出版社/メーカー: プレジデント社
- 発売日: 2013/07/12
- メディア: Kindle版
そういうわけで、「センス」というものは、基本的には実際に場数を踏む(自分自身で経営的な判断を下していく)ことでこそ磨いていけるものではあるのだけれど、擬似的な方法で場数を増やすこともできないわけではない。たとえば、「センス」のある人のカバン持ちをして、その人の一挙一動を観察しては、「なぜ、その人はそうするのか」ということをかんがえてみるとよい。「なぜ」をかんがえ、その人の背後にある論理をつかもうとすること、相対化して思考することは、自身のセンスを磨くことにも繋がっているのだ。
そして、読書でも同じようなことができる、と楠木は言う。本に書かれているものを単なる「情報」として捉えるのではなく、それを前後左右に広がる文脈のなかに配置してかんがえてみれば、因果のロジックが見えてくる。著者や登場人物の置かれている文脈を知り、彼らと対話するように読んでいくことで、自分とは異なる論理を把握し、センスを磨いていくことができるだろう、というわけだ。
本書ではさまざまなジャンルの本が取り上げられているけれど、いずれの章においても楠木は、「このような文章が書かれている背景にはこういう思考法、ロジックがあるのだろう」ということを常にかんがえており、「著者との対話」を実践してみせてくれている。本書のタイトル『戦略読書日記』の通り、レビューとか評論とかいう類いのきっちりとした構成の文章ではないものの、そのちょっと散らかったり脱線したりしている感じが、著者と対話しながら、そのストーリー組み立てのプロセスを辿っていくのにちょうどよいペースを作り出している。どんな本に対しても楠木流の経営論に結びつけて論じていってしまうので、まあ結構強引だったりはするものの、その強引さこそが著者の個性であり主張になっているわけで、そういったところもおもしろい。
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たとえば、井原西鶴『日本永代蔵』を扱った章。楠木は、越後屋のイノベーティブな商売のやり方――大きな間口の店を構え、そこに来店した顧客を専門知識のある店員で接客する。その際、「現金切売り・掛値なし」とする――を、なぜ三井八郎右衛門がはじめるまで誰もおもいつかなかったのか?なぜ皆、大名や幕臣の家に出入りしては掛値で販売する、「御用達方式」の商売しかしていなかったのか?という疑問を提出し、それに対して自説を述べてみせる。
曰く、当時の優れた商人とは、得意顧客のアカウント・マネジメントのが上手い人、だったのではないか。つまり、顧客との長期的なリレーションのなかで、まあ持ちつ持たれつですよね、という感じでうまいこと売掛金を調整し、与信管理をしていくことに長けた人こそが、一流の商人として成功していたのではないか。だからこそ、そのためのノウハウやテクニックを十分に持っていた既存の商人たちからは、「現金切売り・掛値なし」というイノベーションは生まれなかったのではないか。
こんな仮説を述べた上で、楠木はこんな風にまとめてみせる。
その業界で既存の支配的な戦略やビジネスモデルのもとで「合理的」で「大切」なことであれば、みんなが必死に資源と努力を投入する。しかし、「今みんなが必死になってやっていること」の先には、戦略のイノベーションはない。裏を返せば、従来の支配的な戦略にとってカギとなる武器を完全に無力化する、ここに戦略のイノベーションの本質がある。 越後屋はモノの価値を変えたのではない。「モノを売る」という仕事を再定義し、それまでの商売の顧客接点を全面的につくり変えたのである。従来の戦略を無力化できるような戦略こそがイノベーションたり得るって、いや、それこそがまさにイノベーションってものの定義でしょ、という気もするけれど、でも西鶴の呉服屋の描写からここまで一息で持って行くその手つきが良くて、たのしく読めてしまう。この強引さは、佐藤優がなんでもキリスト教神学に結びつけてみたり、福岡伸一があれもこれも動的平衡だと言ってみたりするのと似たような感じもあるのだけれど、とにかくどんな本でも楠木の戦略ストーリーに取り込んで語ってしまう本書は、読んでいて単純におもしろいのだった。