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『飛ぶ教室』/エーリヒ・ケストナー

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ケストナー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/09/07
  • メディア: 文庫
物語の舞台はドイツ、キルヒベルクのギムナジウム。正義感の強いマルティン、作家志望のジョニー、喧嘩の強いマティアス、弱虫のウリ―、読書家のゼバスチャンの5人組が主人公だ。クリスマスを目前に控えた彼らの頭のなかは、クリスマス会で上演する劇「飛ぶ教室」の稽古と、クリスマスの帰省のことでいっぱい。だが、そんなある日、同級生のひとりが実業学校の生徒に拉致されたとの情報が入ってくる。5人は捕虜を奪還するべく、急いで動き出すのだったが…!

いわゆる「ギムナジウムもの」らしく、本作でも、扱われているのは無垢な少年たちの傷つきやすさだと言っていいだろう。ケストナーは「まえがき」でこう書いている。

人形が壊れたからでも、あとで友達を失ったからでも、泣く理由はどうでもいい。人生で大切なのは、なにが悲しいかではなく、どれくらい悲しいか、だけなのだ。子どもの涙が大人の涙より小さいなんてことは絶対にない。ずっと重いことだってよくある。(p.18−19)
自分をごまかしてはいけない。ごまかされてもいけない。災難にあっても、目をそらさないで。うまくいかないことがあっても、驚かないで。運が悪くても、しょんぼりしないで。元気をだして。打たれ強くならなくちゃ。(p.22)

本作は、まさにこの「どれくらい悲しいか」というディテールをたしかな手触りでもって描き出し、かつ、過酷な人生に対して「打たれ強く」なるよう、子供たちを勇気づけるような物語だと言っていいだろう。

そして、本作のいちばんの魅力は、とにかく登場する子供たち、大人たちの全員が――本当に全員が!――人としてとてもまっとうで、自立したかんがえを持っている、というところだろう。そしてその結果として、すべての会話が生き生きとしている。とにかくキャラクターひとりひとりが立っていて魅力的なのだ。

「わかっちゃいないね」。しょんぼりとウーリは言い、かじかんだ指をこすった。「いろんなことやったさ。臆病者を卒業するために。――でも、どうしようもない。いつもね、逃げないぞ、言いなりにはならないぞ、って決心する。岩みたいに固く決心するんだ。でも、いざとなると、逃げ出しちゃってる。誰からもぜんぜん信用されてないって気がつくと、吐き気がする」
「じゃ、なにか尊敬されるようなこと、やらなきゃな」。マティアスが言った。「とんでもなくすごいことをな。みんなにさ、へーえ、ウーリってすごいやつだな、と思わせるんだ。あんなすごいことをやるとは思ってもいなかったぜ、ってね。どうだ?」
ウーリはうなずき、うつむいて、長靴の先で垣根の細長い薄板をけった。「ぼくってチビだから、ほんと寒がりなんだよ」と、とうとう白状した。(p.50−51)

たとえばこんなところ。会話のリズム感がすばらしい。また、こういった会話だけで登場人物たちの個性をさらっと書き分けてしまっているところなど、さすがケストナー、と唸らされてしまう。

『飛ぶ教室』の原題は、"Das fliegende Klassenzimmer"。作中劇では、文字通り教室が世界中を「飛ぶ」わけだけれど、"fliegend"には、固定されておらず、漂うような、自由な、といった意味合いがある。本作は5人の子どもたちの物語であるのと同時に、彼らを見守る大人たちの物語でもあるのだけれど、彼ら全員が象徴するような自由でまっとうな学び舎のイメージを、ケストナーは本作のタイトルに込めたということなのだろう。

また、本作の出版は1933年。ヒトラー政権が誕生し、ナチスが全権を掌握していった、まさにその年だ。ファシズムを批判し続けていたケストナーは、ドイツ国内での出版を禁止され、焚書の対象にされていた。そのため、本作もドイツ国内ではなく、チューリヒで出版されたという。そういった事情を加味してみると、原題の"fliegend"や、作中のノートが燃やされる事件、「捕虜」への暴行、いじめに対して「それを止めなかった者にも責任がある」という先生の言葉などに込められたケストナーの想いについても、いっそう強く感じられるようにおもう。