ずいぶん以前に、早稲田松竹にて。(以前の邦題は、『ソフィー・マルソーの刑事物語』。)『ヴァン・ゴッホ』とよく似ているところは、登場人物たちが何をかんがえているのかはっきりとはわからない、というところだろう。愛を知らない孤独な男女が、その孤独の暗闇のなかで邂逅し、一瞬の共鳴を経験した後に、また別々の暗闇のなかへと離れていく…というのはひとつの定形だけれど、本作は、主人公の男も女も、その感情の核の部分をはっきりと見せない、というところが徹底されており、それが物語を多義的で曖昧なものにしている。
「私は嘘つきなの」と女は語るが、男の方だってなかなかの嘘つきだし、というか、物語のスタート時点から、もう誰も彼もが嘘をついている。(物語の冒頭、売人の取り調べのシークエンスからして、嘘をつくこと、というモチーフが打ち出されている。)作中で、「アラブ人はでたらめを言っているようだが、彼らには彼らの真実がある」と語られるように、嘘つきたちのなかにも、やはり嘘つきなりの真実というやつがあるはずで、観客はそれを見定めようとするのだけれど(そして登場人物のそれぞれも、なんとかそれを見定めようとするのだけれど)、最後まではっきりとした答えが得られることはない。嘘つきが「真実」として語ることは嘘なのだから、嘘つきなりの真実があるとすればそれはおそらくこういったものだろう、と想像することしかできないのだ。
もっとも、それは本作の登場人物たちのような極端な嘘つきだけに限ったことではない。人は他人の思考を読みとることなどできないのだから、そもそもコミュニケーションとは、「おそらくこの辺りが相手のかんがえだろう」「たぶんこういう感情なのだろう」などと仮定し、そこに足場があると信じて跳躍する、ひとつの賭けであるはずなのだ。そしてまた、自分自身のことにしたって、本当の気持ち、自分なりの真実などといったものが、そんな風におもった通りの姿であるかどうかなんて、本当ははっきりしないのだ。それは周囲の世界との関係性のなかで絶えず揺れ動き続ける、曖昧で不確かな足場でしかないはずなのだ。本作は、そんなどこまでも「嘘つき」である他ない人間――はっきり本当かどうかわからないことを「真実」だと呼ぶことだって、やっぱり「嘘つき」だということになるだろう――同士のコミュニケーションの不可能性を、そして、それを一時的に飛び越えることができるかもしれない気持ちの重なりや共鳴や愛情といったものの困難さを、観客に向けて突きつけてくるのだ。
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2014/03/22
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