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『コズモポリス』/ドン・デリーロ

コズモポリス

コズモポリス

2000年のニューヨーク。若くして投資会社を経営する主人公は、自分の周りにあるすべてにリアリティを感じられないでいる。莫大な資産、鍛え上げた肉体、株式の動きを見抜く才能、特殊改造されたハイテクの豪華リムジン、優秀な部下、ボディーガード、専属の医師による毎日の健康診断、愛人たち…彼は資本主義社会の上澄みのありとあらゆるものを手にしている男だけれど、ある日、自ら進んでそのすべてを投げ捨て、破滅に向かって突き進んでいくことを決めてしまう。それはまるで、自己破壊によってシステムの外部に脱出しようとする試みのように見える。

その過程において彼が希求し続けるのは、肌感覚、肉体的な接触、痛み、といったものだ。愛人たちとセックスし、嬉々としてスタンガンに撃たれる。レイヴ・パーティでブレイクダンスやスーフィダンスを目撃する。激しい街頭デモに巻き込まれ、リムジンをボコボコにされる。焼身自殺する男の姿に魅入られる。顔面にパイを投げつけられる。セキュリティ主任の男を殺す。映画のロケ現場で全裸のエキストラたちに混ざり、裸で路上に寝そべる。…そんな自己破壊のための地獄巡りを経て、最終的に彼は、自分の命を狙う暗殺者のもとに自ら赴き、対峙することになる。

というわけで、『コズモポリス』は、現実性を欠いた観念的で数的な世界、完璧なバランスの世界から、混沌として歪んだ世界、肉感的、実存的な世界への移行を描いた作品だと言っていいだろう。とはいえ、本作もデリーロの他の作品と同様、その文章は非常に思索的、詩的で、物語のムードは常に静けさに包まれている。どんなに激しい暴力的な場面であっても、しんとして冷ややかな雰囲気が崩れることはないのだ。

また、主人公の内面がはっきりと描かれないこともあって、ストーリー上の起伏というのもあまり感じられないようになっている。彼の思考や認識に関しても、肝心なことが書かれていないような、あるいは肝心のこと以外は何も書かれていないような、そんな書かれ方がされているので、読者は彼のことをわかった気になることもできないのだ。もっとも、主人公のことがまるで理解できないとなると読者は物語に関心を持てなくなってしまうので、たとえば登場人物同士の会話の内容から、その内面をなんとか推察できるようにはなっている。

「この楽天的な風潮、好景気に株の急騰。物事はすごい勢いで起きている。あれやこれやが同時に。手を差し出したら、何に触れる?みんなが十分おきに千もの分析をしている。それは俺もわかっている。パターン、比率、指標、情報の全体像。俺は情報が大好きだ。これこそ俺たちの糧であり光。まさに奇跡。そして俺たちは世界の意味を握っている。人々は俺たちがすることの影響下で食べたり眠ったりする。でも、だからといって、何なんだ?」(p.19)

「私は自分自身にとって謎となった――そう聖アウグスティヌスは言った。そこに私の病がある、と」
「それが出発点だな。重要な自己認識だよ」とエリックは言った。
「俺は自分のことを話しているんじゃない。あんたのことを話しているんだ。目覚めているときのあんたの全人生が自己矛盾だ。だからあんたはわざわざ自分の転落を演出しているんだよ。あんたはどうしてここに来たんだ?それがあんたに最初に言った言葉だったよな、俺がトイレから出てきたとき」(p.228)

デリーロの文体というと、とにかく硬質で形而上学的、わかりにくい隠喩が多用されるのも特徴だけれど、本作ではそれらはやや控えめ。モチーフや物語の展開がストレートなこともあって、比較的わかりやすい作品と言うことはできるかもしれない。(まあそれでもじゅうぶん晦渋ではあるのだけれど。)