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『かもめ』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)

作家志望の青年トレープレフは、湖のほとりにある叔父の土地で暮らしている。そこに、名の知れた女優である母アルカージナが、愛人の売れっ子作家トリゴーリンを連れてやってくる。トレープレフは想い人ニーナを主演女優に、前衛的な劇を皆の前で上演してみせるが、母親たちの理解を得られず、笑いものにされ、ついには怒りのあまり劇を中断してしまう。

ニーナは著名な芸術家であるトリゴーリンに憧れを抱き、ふたりは接近していく。ニーナが離れていってしまったこと、自らの作品が受け入れられなかったことに絶望したトレープレフは、ピストル自殺を図る。

それから2年の時が流れ、作家としてなんとか独り立ちしつつあるトレープレフのもとに、ニーナが姿を現す。トリゴーリンに捨てられ、女優としての成功もおぼつかず、不安定な様子を見せるニーナだったが、トレープレフへの語りのなかで、芝居を続けていく決意と、トリゴーリンへの愛を口にする。その夜、トレープレフは再びピストル自殺を図り、今度は成功する…。

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ニーナとトレープレフの立場というのは、物語の開始時点ではほぼ同等のものだと言っていいだろう。彼らはふたりとも、何も持っておらず、ただ淡い希望だけを胸に、あいまいな夢を見ている若者にしか過ぎない。そんなところに、トレープレフにとっての乗り越えるべき壁としてトリゴーリンが現れ、状況が変化していくことになるわけだ。

すでに成功している作家であり、そしてニーナの愛情を勝ち得た者であるという意味で、トレープレフにとってトリゴーリンは対峙を余儀なくされる存在である。(ついでに言うと、トリゴーリンは、母アルカージナに一人前の男として認められている人物でもある。もちろん、トレープレフはそうではない。)だから、トレープレフはトリゴーリンに敵愾心を燃やし、嫉妬し、己の実力のなさに苦しみ続けることになる。作家であるトリゴーリンによってニーナを奪われることで、トレープレフのなかでは、作品の失敗が愛情の喪失と、作品の成功が愛情の獲得と、分かちがたく結びついてしまう。彼は、その間違った構図のなかでのたうち回ることしかできなくなってしまうのだ。

しかし、第四幕に至って、ほとんど不意に、彼が本当に求めるべきだったのは、「魂のなかから自由に流れだすように書く」ことだったのではないか、ということが明らかになる。既存の権威や他の作家を打ち倒すための「新しい形式」の探求などではなく、ただ、己の「魂」のなかから書くということ、それこそが彼のやるべきことだったのではないか、と。そんなひらめきに対して、そうかようやく俺のやるべきことがはっきりしたぞ、とポジティブに反応できればよかったのだけれど、もはやトレープレフにはそんな風にはかんがえられない。自分はすでにあまりにも多くの時間を無駄にしてしまった、すべては失われてしまった、手遅れでしかない…おそらくはそんな風に絶望し、自ら生命を絶つことになるわけだ。

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ニーナの場合はどうだろうか。ニーナはトリゴーリンに捨てられ、女優としても失敗している。(第四幕では、田舎回りの女優となって、くたびれ果てている。)気持ち的にも不安定で、はっきり言ってトレープレフと同じくらいぼろぼろに見える。愛する相手に捨てられていること、自分の作品が思うようにうまくできないこと、いっけん、彼らの状況は非常によく似ている。

だが、彼女は物語最後の長い独白――トレープレフの目の前で彼に対して語ってはいるが、ほとんど独白のようにしか聞こえない――のなかで、これに耐えていかなければ、と口にすることができるようになる。

わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ――だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。(p.120,121)

トレープレフは、自分の使命がわからない、どうしたらいいのかわからない、もう手遅れでしかない、と言い続けているのに、この違いはどこから来るのか?ニーナだって、第三幕と第四幕の間の2年間のうちに、自殺していてもおかしくないではないか?ふたりを異なる結末へと導いていったものとは、いったい何なのか??

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…それはおそらく、自らの運命を受け入れる覚悟、のようなものなのではないか。ニーナは、かつて前衛劇を演じた手作りの劇場がぼろぼろになってなお湖のほとりに残っているのを見たときに、2年振りに泣いて、胸が軽くなって、心の霧が晴れた、と言う。それは、かつて無邪気に抱いていた夢が、無様に失敗したということを確認する作業であり、自らの程度、自らの現実を受け入れるということでもあったのではないか。

わたしは――かもめ。……いいえ、そうじゃない。わたしは…女優。(p.119)

そう述べるニーナは、「かもめ」――ふとやってきた男によって、退屈まぎれに破滅させられてしまう娘。「ほんの短編の題材」のような――であることを飲み込み、そういった自分の立場をはっきりと認識した上で、それでも「女優」たろうとする。「かもめ」である自分自身を受け入れ、惨めでも、成功とはかけ離れていても、それでもなお一歩ずつ進んでいこう、進んでいくしかない…という信念の、これは宣言なのだ。

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「わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの。」と語るニーナのように、書くことで、魂のなかから書くことで――物語序盤で、奇しくもトリゴーリンが述べていたように、「書きたいことを、書けるように書く」ことのなかで、つまり、ただできること、やるべきことをやる、ということのなかで――たしかな喜びを見出すことができたのならば、トレープレフは、己の運命を受け入れ、まだ生き続けることができたのではないか。ただ書くためだけに書くことができていれば、彼が死に至ることはなかったのではないか。俺はそんな風に感じたけれど、でも、その辛い道を改めて選択しようとするには、すでにあまりにも深く決定的に、彼は傷ついてしまっていたのかもしれない、ともおもう。