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『ヴァン・ゴッホ』

ずいぶん以前に、早稲田松竹にて。こんなに素晴らしい作品のことをいままでまったく知らなかったとは…!っておもってしまうほど、深い情感を描き出した、美しい映画だった。ぼわっとした光と影、気怠い空気感のなかで、ファン・ゴッホの晩年、オーヴェル=シュル=オワーズでの最後の2ヶ月を描いた作品。

ファン・ゴッホを主人公とする映画として本作が特徴的なのは、いわゆる伝記映画な描き方をしていない、というところだろう。ファン・ゴッホの有名なエピソードをことごとく回避することで、彼の偉大さ、特殊性、天才、狂気といったものよりも、自分自身だけに正直で、口を開けば周囲を傷つけずにはいられない、ひとつの不器用で孤独な魂としてのファン・ゴッホの姿に焦点を合わせているのだ。だから、本作には大したストーリーラインもないし、劇的な展開もない。あるのは退屈といってもいい、晩年のファン・ゴッホの日常だけ、匿名的で普遍的な、なんでもない日々が映し出されていくばかりなのだ。(とはいえ、そのなんでもない日々のなかで、どれだけ美しく印象的なシーンがあることか!)

ファン・ゴッホをはじめとする、物語の登場人物たちが何をかんがえているかは、観客にははっきりと知らされることはない。しかし、彼らの感情が各シーンで絶えず揺れ動き、微妙に変化し続けているということだけははっきりとしている。そんな微妙さ、曖昧さに包まれた物語のなかで、ただひとつだけ明確にされているのは、ガシェ医師の娘、マルグリットのファン・ゴッホに対する好意、恋心ということになるが、どういうわけで彼女が彼に惹かれているのか――もっとも、理由などといったものがあるとすれば、という話だが――についても、やはりはっきりと描かれることはない。作品全体を大きく包み込んでいるのは、ふわっとした曖昧さ、静けさ、その微細な振動であり、その不明瞭で多義的な、淡い光と影のなかで、ファン・ゴッホは死の方へと宿命的に向かっていくことになる。

印象的なのは、人物たちが対話する際に細かく繋がれていく、顔アップ/バストアップの画だ。ファン・ゴッホがマルグリットから決定的に離れてしまうパリからの帰りの列車のシーンをはじめ、テオの妻やガシェ医師、イディオットの青年、そして最後のマルグリットの顔のアップなど、いずれもひとことでは言い表わせないような多義的な表情をしていて(そのため、それは無表情というやつにも近い表情である)、それがひどく心に焼きつくのだ。彼らがそんな表情をするのは、壊れゆくファン・ゴッホと関わりを持ち、あれ、もうどうしたらいいのかわからない…となった瞬間である。カメラは、そのとまどい、困惑、やるせなさや哀しみといった、ひとことで表現できる「心情」ができ上がるよりもう少し手前の、ぐしゃっとした感情の塊がそのまま表出されてしまっているような彼らの顔を冷徹に映し出している。そんな不分明な状態が捉えられていることで、本作の多義的で複雑な情感が強められているようにおもえる。

ファン・ゴッホを死に向かわせたのは、孤独や狂気や哀しみといったひとことでは表現し得ない何かであっただろう。それは、いくつもの感情や思考が絡まり合い、複雑に作用し合うなかで、否応なしにその方向へと引き寄せてしまう、強力な引力のようなものだったのかもしれない。わからない。わからないけれど、この映画は、そのわからなさを正面から引き受け、それを画面に映し出すことに成功しているようにおもう。ファン・ゴッホというひとりの人間の姿を、天才や狂気といったひとことで記号的に矮小化することなく、哀しくも美しい、壊れているけれど精密な、どこまでも茫洋としたその魂の在りようから、描き出しているとおもう。

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