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『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(その2)

いまでもときどき、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のことをかんがえている。かんがえるときには必ず、あるシーンの映像が浮かんでくる――列車の座席で、ダニエルが自分の子供として育てることになる赤ちゃんのH.W.を膝に抱いているところだ。ふとした瞬間、H.W.がダニエルの髭に手を伸ばし、うれしそうにわらう。ダニエルもつられたようにH.W.の頬に触れて、少しだけ微笑む。その瞬間、ふたりの目が合い、何かが通じ合う。通じ合ったように見える。この映画のなかではほとんど唯一の、心安らぐ、美しいシーンなんじゃないかとおもう。

世界というのは残酷なところだ。生きることにはとくに意味などなく、人はただただ大事なものを失っていくばかりだというのに、それでもこんな、心が通じ合うような、何かを分かち合えたと感じられるような、奇跡みたいに美しい場面が存在してしまう。そういう場面、そういう瞬間があるからこそ人は生きていけるのかもしれないけれど、でも、そんなものを知ることがなければ、そんなものがはじめから存在しなければ、生きることの、この世界中にままならない自我を運び回ることの苦しみも、きっと少しは軽減されるのに、なんて俺はときどきおもってしまったりする。

まあ、これって単に喜びと苦しみとは表裏一体なんだよ、って話に過ぎないのだし、こんな感じ方はナイーブに過ぎるだろうともおもう。でも、なんていうか、俺はダニエルの人生のことをかんがえるとものすごく悲しい気持ちになってしまうのだ。彼の生き方が不幸だとかどうとか、そういうことを言いたいわけじゃない。そうではなくて、どんな理由があるにせよ、本人がどんな風におもっているにせよ、人はどうしたってその人の生きるようにしか生きることができなくて、でもその生き方というやつがこの世界にうまく適合していないなんてことはいくらでもあり得るんだ、って事実を突きつけられるような気持ちになるのだ。うまく言えないのだけど。

なぜだろう?ダニエルの生き方、欲深さや嫉妬心、傲慢さに身を任せて向かうもの全てをなぎ倒していくその姿が、俺にはなんだか愛おしくおもえてしまう。あんまりダークで救いのない物語だから、だからそんな風に感情移入してしまうのだろうか?憧れみたいなものもあったりするのだろうか?よくわからない。まあ、わからないからこそふしぎでおもしろい、っていうのは、映画でも現実でも同様のことだ。

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そういえば、ジョゼフ・コンラッドはこんな風に書いていた。

人生とはおかしなものだ――虚しい目的のために、情け容赦のない筋道が、どういう具合にか用意される。人生に期待できるのは、せいぜい自分について何事かを悟れるということだけだが、それは常に遅ればせな悟りであって、つまりは悔やみきれない後悔を得ることでしかない。(『闇の奥』p.173)

人は道を選択することはできるかもしれないけれど、その道を引き返すことは不可能だ。もう一度戻りたい場所や時間があったとしても、それらはせいぜい思い出として自分のなかに保存しておくことくらいしかできないだろう。

俺はコンラッド言うところの、"悔やみきれない後悔"のことを、それをどうしたって避けることが叶わないということを心底恐がっていて、それでダニエルの生き方に気持ちを揺さぶられてしまうのかもしれない、とちょっとおもったりもする。だってダニエルこそまさしく、"情け容赦のない筋道"を覚悟を決めて一息で突き進んでいき、"悔やみきれない後悔"を得た人だったのだから。

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)