いつだったか、友達のだれかが、「わたし映画ってよくわかんないんだよねー。ストーリーとか、何が言いたいのかとか、よくわかんないまま2時間も座って見てるのって苦痛ー」みたいな話をしていて。そのときは、よくわかんないってどういうことだろう、ってぼんやりと感じただけだったけど、後からよくかんがえてみると、これってなかなかおもしろい問題を孕んでるなーっておもった。
映画がわかる、っていうのはどういうことなのか。人があるものに対して下す、わかる/わからない、って評価はいったいなんなのか。保坂和志は、『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』のなかでこんなことを書いている。
「わかる」とは何なのか?/色や形が言葉に置き換えられる、ということだ。もっと言えば、色や形のままでは百も二百もあった要素が、“現代社会”なり“戦争の悲惨さ”なりという、絵の外にある既成の概念と結びつく。
「わかる」ためには、たぶん短い言葉に縮められるだけではダメで、作品の外にある言葉や概念と結びつく必要がある。そのとき、作品は作品それ自体でなく、読み解く対象、つまり媒介となってしまう。(p.17)
この文脈は絵について語っているところなので、色や形、ってことばが出てきているけど、これはもちろん絵にかぎらず、どんな芸術にも当てはめてかんがえられることだろう。ここで述べられている、あるものが「わかる」、というのは簡単に言ってしまえば、それを解釈できる、ってことだ。だから、わからない、というのはつまり解釈のしようがない、保坂のことばを借りれば、作品中の要素が作品の外にある既成の概念と結びつけられない、ということになるだろう。
わりと一般に、「ある対象がわかるということ」イコール「それをことばで、筋道立てて説明できること」、なんていう風にかんがえられがちなんじゃないかとおもうのだけど、辞書的な知識に関してはともかく、はたしてそれだけが芸術のわかりかたなのだろうか。もちろん、というか、たぶん、そうではないはずだ。それは、言語に多くを頼らない、要素ひとつひとつを取り出すことが困難な芸術のありかたについてかんがえてみればわかりやすいかも知れない。たとえば、音楽とか。ことばを用いてある音楽を説明することのむずかしさっていうのは、誰しもこころあたりがあるんじゃないかとおもう。ことばをいくら積み重ねていったところで、けっして表現し得ないものが世界にはたくさんある。もちろん、だからといって、ことばの可能性をいたずらに矮小化してしまってもしょうがないのだけど、言語という限りのある体系のなかに組み込まれることでこぼれ落ちてしまう要素なんていくらでもある、ってことはしっかり覚えておくべきだとおもう。
なんだか話がずれてしまったけど、そういうわけで、映画がわかる/わからない、っていうのは映画そのものをたのしむこととはまた別の問題なんじゃないか、っておもう。いや、こうやって言っちゃうとすごく素朴だし、当たり前なんだけど。「〜がわかる」ということばでわかった気になっているものは、その対象そのものではあり得ないし、「〜がわかる」って言いかたをするようなものじゃなくても、じっさいわかっていることっていうのは、たくさんあるんじゃないかなー、ともおもう。
まあ、わからない、って言い方で映画がたのしめない、ってことを言っていたのかもしれないけど、そうだとしたら、重要になってくるのは、やっぱりいろんなことをインプットすることだろう。映画そのものをたくさん見ることもそうだし(あ、でもそれは映画が嫌いだったらむりか!)、人から映画についての話を聞くことだっておおきい。どんなところがおもしろかった、とかって話を聞くことで、新しい視野がひらけて、それをおもしろがれるようになる、なんてことはよくあるとおもう。あ、でもそれって、単に、わかりかた、のバリエーションを広げるって作業なのかもしれないな…。そうかんがえると、なにかがわかった気になる、ってことがきもちのなかでどれだけ大きな役割を果たしているのかがわかるような気もする。って、俺、また、わかる、なんて使っちゃってるけど。
- 作者:保坂 和志
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2007/10/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)