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『悲しき熱帯』/クロード・レヴィ=ストロース(その2)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

前回のエントリには、読みづらさのことばかり書いてしまったけれど、1巻の終盤以降からは、フィールドワークの話が主軸になっていく(そこから、横道に逸れるような形で省察が展開される)ので、だいぶ読みやすくなってくる。レヴィ=ストロースは、南米の「野蛮人」の文化を観察しながら、西洋文明とは何なのか?ある社会の成員が、自らの所属とは異なる社会の内に見出される諸々についてその「価値を判断する」とはいかなることなのか?ある社会を別の社会と「比較」し、そこに何らかの優越性を見出すなどということは果たして可能なのか??…といった、不可知論的・文化相対主義的な思考を巡らせていく。

当然ながら、それらの疑問に対し、シンプルな回答が見出されることはない。観察対象に何の影響も与えない観察というのはあり得ないわけで、調査隊がインディオの村に入り込むことは、その文明を崩壊へとまた一歩近づけることに他ならないし、フィールドワークによってその文明の「ありのままの姿」を写し取ることなど決して叶いはしない。また、民族学者は、「自分のところでは批判者であり、外では適合主義者である」という矛盾した立場に立っているわけで、だから彼は無邪気に「中立な観察者」であり続けることはできず、徹底的に観察対象から距離を取り続けるよう意識し続けることを義務づけられた存在である。

このようにして、私の目の前に現れるのは脱け出すことのできない循環だ。人類の様々な文化が、相互に交渉をもつ度合いが少なければ、つまり接触によって互いに腐蝕し合うことが少なければ、それだけ、異なった文化がそれぞれ送り込む使者が、文化の多様性のもつ豊かさと意義とを認め得る可能性も少なかったわけである。(『悲しき熱帯 Ⅰ』 p.58)

奇妙な逆説だが、私の冒険生活は、一つの新しい世界を私の前に開いてくれる代わりに、以前の世界を私のうちに甦らせ、一方では、私の希求していた世界は私の指のあいだで崩れかけていた。私がその征服を目指して旅たった民族や景観は、それを私が手に入れた時にはもう、私の期待していた意味を失おうとしていた。(『悲しき熱帯 Ⅱ』 p.355)

われわれは暗黙のうちに、われわれの社会と、その習俗と、その規範とに特別の位置を認めている。というのも、他の社会集団に属する観察者は、同一の例に対して異なった判断をするであろうから。こんな有様で、われわれの研究は、どうして科学の名に値すると自負できようか?客観性という立場を再び見出すために、われわれはこの種の一切の判断を自分に禁じなければならない。人間社会に開かれた可能性の全域の中で、各々の社会が或る選択を行い、それは相互に比較できないということを認めなければならないだろう。それらはみな等価なのだ。(『悲しき熱帯 Ⅱ』 p.372)

レヴィ=ストロースは、不可知論に基づくペシミスティックな態度を伴いながらも、「野蛮人」(異国的なもの、未開のもの)に対する感情をぎりぎりのところで相対化・昇華することなく、その文化を複雑で幾何学的な構造分析の方法によって解析しようとしていく。多くの人が魅せられている、この本の美しさというのは、彼の知性と態度の狭間に生じるメランコリーにあると言うことができるのではないかとおもう。