Show Your Hand!!

本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『Mトレイン』/パティ・スミス

パティ・スミスによる回顧録的なエッセイ。自身の内面深くに潜り込んでいくような文体で、自由連想的な文章が紡がれている。彼女自身の年齢もあってか、全体のムードは静謐、瞑想的で、粒子の粗いモノクロームのような美しさを感じさせる一冊になっている。

音楽の話はほとんど出てこない。主な話題は彼女のルーティン――朝起きていつものカフェに向かい、いつもの席に座り、ブラウントーストとコーヒーを注文し、ノートに文章を書きつける――と旅、彼女が愛する本たちと作家たち、失われた場所や物たち、そして何より死者たちに関するものだ。だから本書にはパンクの女王としてのパティ・スミスの姿というのはほとんど感じられない。これは、あくまでのひとりの文学少女(の大ベテラン)の手による随想集なのだ。

「たくさんの本を読み終え、魂を奪われながら本を閉じたのだが、家に帰り着く頃には内容をまったく覚えていない」、「何冊かの本は愛し、それとともに生きたといっていいくらいなのに、それでも思い出せない」ことがある、と彼女は言う。これは誰しも身に覚えがあることだろう。俺がこうして文章を書いているのだってまさにこれが理由であって、本を読んだ時間やその際の心の動きを、なんとか一部だけでも記録や記憶に留めようと試みているわけだ。

もっとも、本ばかりではなく、人の生にしたって、終わった後にはまるでその内容が思い出せない、そんなものだと言うこともできるだろう。どんなに夢中になって生きても、どんなに誰かを愛しても、人は必ず死ぬ。死んでしまえば、その人は他の生者の記憶のなかに微かに残るだけで、それもやがてかき消えていってしまう。

あらゆる瞬間は過ぎ去っていき、後には何も残らない。どんなものも人も、消えていかないものなどない。だからこそ、物書きは文字としてそれらを留め、なんとか形あるものとして焼きつけようと足掻くのかもしれない。訳者の菅は「訳者あとがき」で、パティ・スミスを「墓守」と呼んでいたけれど、彼女にとって、書くこととは失われゆくことへの哀歌であり、失われたものへの鎮魂歌でもあるようだ。

私は私自身の本の中で生きた。時を行ったり来たりして記録しながら書いた、書くつもりもなかった本。私は海に降る雪を見つめ、ずっと以前に立ち去ってしまった旅人の足跡をたどった。完璧な確実さをもったいくつもの瞬間を、私は生き直していた。(p.253-254)
私たちは所有することのできない事物を求める。ある瞬間、音、感覚を取り戻そうとする。私は母の声を聞きたいと思う。子供たちを、子供時代のままの姿で見たい。小さな手、すばやい足。すべては変化する。息子は大きくなり、その父親は死に、娘は私よりも背が高く、悪い夢を見て泣いている。ずっといてね、と私は自分が知っている事物にむかっていう。行かないで。大きくならないで。(p.254)