1985年に発表された、ドン・デリーロの出世作。ボードリヤールが言うところの、「ハイパーリアルとシミュレーションの段階」にあるアメリカをポストモダン風の皮肉で描いた、なんてまとめられそうな感じの小説だ。主人公のジャック・グラドニーは、アメリカ中西部の町にある大学で、「ヒトラー学科」なるものの教授職に就いている壮年の男。彼と彼の家族とが電子メディアの影響にどっぷりと浸かりながら日常生活を送り、また、いくつかの事件に巻き込まれていくさまが描かれていく。
この現代において、人間ひとりひとりはデータの総計として扱われるかのようだし、メディアによって作られたイメージが現実に先行して存在しているようでもある。人は現実に目の前で起こっていることすらも、メディアによって作り上げられ、映し出されたイメージを通して眺めることになってしまったりする。あー、これってまるで映画みたいにリアル、というように。
二人は小さな明るいロビーから通りへ出てきた。道は寒く、人気がなく、暗かった。息子は母親の横で、手をひかれ、まだなきながら歩いてきた。そして二人が実に素人っぽい、悲しみと災難の写真のようであったので、わたしは思わず笑いだすところだった――笑いは悲しみに対してではなく、彼らがつくりだしている絵がらに対してのもので、彼らの悲しみとその外観が不釣合いのせいだった。わたしのやさしさと哀れみの気持ちは、歩道を渡ってくる二人の姿を見て、しだいにしぼんでしまった。二人の服はよれよれになり、息子の方はがんとして泣きやまず、母親は歩きながら打ちひしがれ、髪はくしゃくしゃ、みじめで悲しそうな二人づれだった。彼らは悲しみを、大きくてひたむきな苦悩を、口に出して言うには不似合いだった。(p.82,83)
グラドニーは、近所で有毒な化学薬品が漏れ出す大事故が起こった際にも、ついこんなことを言ってしまう。
「パパはただの大学の教授じゃないんだよ。主任教授でもあるんだ。空媒毒物事故から逃げ出す自分を想像できないね。そういうのは田舎のみすぼらしい地域の、魚の孵化場がある、移動住宅に住む人たちのやることだよ」(p.126)
とはいえ、この小説から「おびただしい量の映像やメディアの言説によって、現実に対して適切に反応・対処するわたしたちの能力は蝕まれているのだ!」的な批判を読み取ろうとしても、それはあまりおもしろくない。むしろ、この小説で提起されているのは、“現実”なるものは存在するのだろうか?そしてその“現実”に反応する能力を、人は持っている(あるいは、かつては持っていた)のだ、なんて言い切れるのだろうか?といった問いであるようにおもえる。“現実”への手がかりとして作中で重要視されているのは、人間の死、死の恐怖といったものだ。
人は、死とはいったいどういうものなのか、決して知ることができない。ありとあらゆるもののイメージがメディアによって作り上げられているかのような現代ですら、人は死について語る術を持たないし、自らの死を実感することもできない。語りえないし、感じえないからこそ、人は死を恐怖する。死の恐怖に取りつかれた主人公のグラドニーは、その恐怖からの逃走を試み、ついには暴力によって死を遠ざけようとすらするけれど、紆余曲折を経た上で、最終的には自身の“現実”との連絡をひとまず回復していくことになる。
シミュレーションだらけの現代で、死と向き合うっていうのは一体どういうことでありうるのか、という問題意識が、長い小説全体を通して響き続ける。もちろんその問いにシンプルな答えなんて出しようもないわけだけど、人は死を自身から遠ざけようとして、死をシミュレーションとして捉えようと努力してしまうのかなー、なんてことをかんがえさせられた。
死者の力は、彼らがずっとわたしたちを見ているのだと思わせることにある。死者は存在する。死者のみで構成されたエネルギーのレベルはあるのだろうか?彼らは地中にもいる、もちろん、眠り、そして崩れていきながら。おそらく、わたしたちは彼らが夢みるものなのだ。(p.106)