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『日はまた昇る』/アーネスト・ヘミングウェイ

日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

ヘミングウェイの最初の長編。短いセンテンスを連ねた簡潔でリズミカルな文体、ぶっきらぼうな会話文、主人公の心情をあからさまにしないハードボイルドな態度、などといった彼の語りのスタイルは、今作の時点ですでに確立されていると言っていいだろう。

物語の始まりは第一次大戦後、「祖国から切り離された」者たちの集まるパリ。語り手のジェイク・バーンズは戦時の負傷により性的不能になってしまった男で、物語のヒロイン、ブレット・アシュリーは性的に奔放な女性である。ふたりは互いに相手を愛しているように見えるのだが、決して結ばれることはない。"Lost Generation"(本書では、「あてどない世代」と訳されている)たる彼らとその周囲の友人たちの空疎でありながらも祝祭的な日々――基本的にずうっと飲んでいる――が淡々と描かれていく。

物語の主軸となっているのは、ジェイクとブレット、このふたりの微妙な関係性である。彼らは互いに、相手の最もよき理解者であるがゆえに相手のことを愛し、しかし、まさにそれゆえに、彼らが決して結ばれ得ないということもわかりすぎる程にわかってしまっている。だから、ブレットは「性悪女」を半ば本能的に演じているようなところがあるし、ジェイクは、そんなブレットのふるまいに傷つきながらも、彼女の内にある葛藤や捨鉢な気持ちを理解できているがために、彼女から完全に離れてしまうこともできないでいる。(もちろん、ブレットは、ジェイクが彼女のことをそのように理解してくれていることを認識してもいる。)そして、そういったややこしい心情的絡まり合いの内実が直接的に説明されるということはない。それは、あくまでも彼らの行動や台詞の端々から仄めかされるだけなのだ。

そういうわけで、実際のところ、作中の半分近くを占めているのは「ブレット以外」のパートである。スペインでのバスク人との交流、鱒釣り、フィエスタ、闘牛といった、ジェイクが目にする物事の描写というのがやたらと多いのだ。しかも、それらの風景描写はとくにジェイクの内面を表現するものとして機能していたりするわけではなく、いわゆる旅行記というか見聞録というか、ざっくり言ってしまうと「単なる観光客目線の描写」のように見える。この観光的な風景描写とブレット関連のプロットとの結びつきというか、その相乗効果みたいなもの――たとえば、ブレットと全然関係のない景色のことを延々と綴ることで、逆説的に彼女への想いを浮かび上がらせる、とか――が果たしてあるのかないのか、あるとすればどの程度効果を上げているものなのか、正直俺にはいまいちぴんと来なかったのだけれど、でもそこはやっぱりヘミングウェイ、各文章のクオリティには素晴らしいものがあるわけで、それなりにたのしく読めてしまったのだった。

突然、通りの端に人の群れが現れた。一塊になって路地を走ってくる。私の目の下を通り過ぎ、闘牛場の方向へ走り去った。後ろからまた別の一団が走ってきた。こちらのほうがスピードが速い。そして、さらに後ろから集団に取り残された人々がばらばらと――だが血相を変えて――走ってきた。その背後に少し空間があって、追ってきたのは頭を上下に振りたてる雄牛の群れだ。人と牛はあっという間に角を曲がって消えていった。角の手前で一人の男が転んだ。すぐ道路わきの排水溝に転がり込み、じっと寝ていた。雄牛たちは男に気づかず、そのまま全頭一団となって走り去った。 人も牛も見えなくなり、闘牛場の方角で大歓声が上がった。歓声はいつまでもつづき、最後に花火で止んだ。(p.238,239)