Show Your Hand!!

本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『三四郎』/夏目漱石

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

小川三四郎という青年が熊本の田舎から東京にやって来て、粗忽者の友人や風変わりな先生、謎の女性らと出会う、そのとりとめもない日常を描いた作品だ。扱われるエピソードはどれもごくささやかなもので、まったく派手さはない。三四郎がふらふらとあちこちを歩いて、人と会って話をする、まあそれだけの小説だと言っていいだろう。漱石の後期の作品にあるような厭世観とか自我の苦しみとかいったものとはまったく無縁だし、いわゆるビルドゥングス・ロマン的な成長物語というのとも、ちょっと違う。

とにかく全体的にナチュラルでさりげなく、なんというか大人の余裕を感じさせる作風だ。ここでひと盛り上げしてやろう、みたいな色気はぜんぜん感じられない。そういう無造作感、軽さはおもしろかったのだけれど、主題ともいえる美禰子さんとの恋愛(というか、三四郎の片思い)については、ちょっとさりげなさ過ぎて、俺には何だか消化不良な感じがしてしまった。美禰子さんは、「ストレイシープ」などとおもわせぶりなことを言って三四郎の人生に謎を残して去っていく、なんとも図り知れないところのある女性だということはわかるのものの、この人の存在がこの作品にとってどういう役割を果たしているのか、どうにも謎過ぎて、もやもやとした気分にさせられてしまったのだった。まあ、好きになった女性というのは――とくに、相手にその気がない場合は――そういう謎めいた存在として目に映るものだけれど…。

それにしても、やっぱり漱石の文章は素晴らしい。たとえば、こんなしょうもない(かわいらしい?)シーンの文章も、グルーヴィなのだ。ちょっと早めのスピードで読んでみると、気持ちいい。

元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中に居るものだろうか。女と云うものは、ああ落ち付いて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行ける所まで行ってみなかったから、見当が付かない。思い切ってもう少し行ってみると可かった。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云われた時には、喫驚した。二十三年の弱点が一度に露見した様な心持であった。親でもああ旨く言い中てるものではない。…… 三四郎は此処まで来て、更に悄気てしまった。何処の馬の骨だか分からないものに、頭の上がらない位打された様な気がした。ベーコンの二十三頁に対しても、甚だ申訳がない位に感じた。 どうも、ああ狼狽しちゃ駄目だ。学問も大学生もあったものじゃない。甚だ人格に関係してくる。もう少しは仕様があったろう。けれども相手が何時でもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれより外に受け様がないとも思われる。すると無暗に女に近付いてはならないと云う訳になる。何だか意気地がない。非常に窮屈だ。まるで不具にでも生まれたようなものである。けれども…… 三四郎は急に気を易えて、別の世界の事を思出した。――これから東京に行く。大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具わった学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間で喝采する。母が嬉しがる。と云う様な未来をだらしなく考えて、大いに元気を回復してみると、別に二十三頁の中に顔を埋めている必要がなくなった。そこでひょいと頭を上げた。(p.15,16)