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『1Q84 BOOK1・BOOK2』/村上春樹

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

読み終わってからもうほとんどひと月が経つのだけど、どうにもうまく感想がまとまらなくて、日記に書くことができないでいた。でもそろそろ何か書き残しておかないと忘れてしまうかもなので、とにかくがんばって何かしら書いてみることにする。あるいはこの先、BOOK3が書かれるかもしれないけれど、とりあえず俺はこの2冊の小説にもうじゅうぶんに心動かされたのだし、だったらその気持ちをここに書いておかないわけにはいかない。とにかく重層的な深みを持った作品だから、これをリアルタイムで母国語で読めるって本当に幸せなことだ、っておもったし、読み終えた後にいろいろかんがえては、あーやっぱり村上春樹は最強だ…、って、高校生のころの自分が辿り着いた結論にまたしても着地させられてしまった気分にもなった。

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『1Q84』においては、マクロにおいてもミクロにおいても、これまでの村上作品に出てきたような要素がふんだんに用いられている。青豆の章と天吾の章、っていう2つのラインが絡み合ったり絡まなかったりしながら物語が進行していくところ、"悪"や"暴力"を象徴するような存在が登場するところ、相変わらずの過剰なまでの比喩が乱れ撃ちされるところ、などなど。そういう意味では、わりと既視感がある、と言ってもいいかもしれない。

とはいえ、それはこの作品がこれまでのものの焼き直しだ、っていうことでは全くなくて、むしろ『1Q84』は、いままでの村上春樹の集大成的な意味合い、そして過去の作品の意味をもう一度掬い上げるような意味合いを持った小説になっているようにおもえる。たとえば、今作における2人の生が絡まり合うような合わないような構造は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』のそれとはまた異なったものになっているし、作中でチェーホフの『サハリン島』を長々と引用してみせるのは、『アンダーグラウンド』をはじめとする自身のノンフィクション作品の意義を、それを書くに至ったことの必然性を、改めて示そうとするようでもある。それに、人知を超えたよくわからない暴力的な存在、ということでは、『羊をめぐる冒険』や、『ねじまき鳥クロニクル』がすぐに連想されるけれど、その扱われ方はいままでよりもずっとややこしいものになっている。

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村上春樹の小説についてよくなされる批判のひとつに、謎が謎のままである(おもわせぶりなまま、作品が終わってしまう)ことであるとか、明瞭な結論、何らかの着地点が物語の最後におかれていないこと、というのがあるだろう。今作、『1Q84』のなかでも、次々に提起される問題に対してはっきりした答えのようなものが示されることは(当然のように)最後までないのだけれど、では、いったいこの作品は何を描いたものななのか?つまり、この作品のなかから"テーマ"なるものを抽出して適当な解釈を与えることは可能なのだろうか??という疑問はやっぱり浮かんでくる。これはあまりにも素朴で陳腐な疑問かもしれないけれど、作品について何かを語ろうとするときにはなかなか避けて通るのが難しい問題でもある。

作中で扱われる"テーマ"の数は、これまでの村上の作品と比べても段違いに多い。善と悪とが一つのものの表裏であることの恐ろしさ、宗教とは、人が何かを信じるとはどういうことなのか、歴史や集合的な記憶を書き換えることの意味とは、"正義"に基づいた殺人の是非、誰にも止めようのない圧倒的な暴力の存在、王殺し、親と子の確執、いまここに世界があるとはどういうことか、などなど。こうやって見てみるだけで、これらの要素全てに対して作中でなんらかの解決を与えることなんてほとんど不可能だろうとおもえてくる。だってあまりにも要素が多過ぎる。そしてじっさい冷静にかんがえてみれば、要素の一つ一つについて、とくに斬新な論が展開されているわけではないようにも感じられる。

じゃあどうしてそんなに大量の問題、"テーマ"が提示されては未解決のままにされているのか、ってことになるのだけど、この作品においては、そのような宙ぶらりんの状態が存在している――さまざまな価値観、思考、感情がごちゃごちゃに入り混じり、互いを内包し合うことでひとつの巨大なカオスを形成している――ってことこそが重要なんじゃないだろうか。何を全肯定することも、全否定することもできない、絶対的なものなど何もなく、あらゆるものは状況や時の流れのなかで相対化される、そんな確かさを圧倒的に欠いた世界のなかで、人は何をどのように信じ、おもい、生きていくのか?それこそが作品全体を貫く問いかけになっているんじゃないだろうか。

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そして、そんな問いかけに対して作中で提示されているのは、愛の物語のイメージだ。10歳のときに手を握り合ったふたりの男女が、離れ離れになって20年経っても心のなかに保ち続けている愛、って書いてみるとなんだかとっても無邪気な感じだけど、このベタでささやかな愛の物語の持つイメージこそが、ひどく混沌とした作品世界を貫く一本の線になっている。

この小説のいちばん中心部、巨大な物語の渦の真んなかにあるそのイメージっていうのは、10歳の青豆と天吾が放課後の教室で手を握り合ったという、そんなごくごくささやかな記憶のことだ。青豆と天吾が直接的に触れ合うのはこのほんのわずかな時間でしかなかったのだけど――あるいはそれだからこそ――この記憶、このイメージは周辺のありとあらゆるカオス、混乱とはほとんど別の次元に存在し、作品を真ん中のところで支えることになる。この記憶から、世界には2つ目の月が生まれ、『1Q84』という物語の構造が形作られていくのだ。それはひどく美しい構造であるのと同時に、あまりにもおぼつかなく弱々しい、ひどくはかない構造であるようにも感じられる。

「しかし誰かを心から愛することができれば、それがどんなにひどい相手であっても、あっちが自分のことを好きになってくれなかったとしても、少なくとも人生は地獄ではない。たとえいくぶん薄暗かったとしても」(BOOK1 p.344)

「僕は誰かを嫌ったり、憎んだり、恨んだりして生きていくことに疲れたんです。誰をも愛せないで生きていくことにも疲れました。僕には一人の友達もいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか?それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることはわかりますか?誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛することなんかできません」(BOOK2 p.178)

この愛の物語の中心にあるのは、こんな信念、こんな率直さだ。あらゆるものが入り混じり、安易にすがれるものなど何もない、そんな世界で吹き荒れる強風の前では、こんな気持ちはいかにも頼りないけれど、でも、中心にはこれしかないのだ。

人の生を空っぽなもの、虚しいもの、過ぎ去り、失われていくものとして捉えるのは村上春樹の初期作品の特徴のひとつだったけれど、今作においては空白のその先に何かを見出そうとするような、もっと強い意志があるみたいだ。その意思は、どうしようもない混沌に包まれたこの世界と、そこを貫くひとつの愛のイメージなんていう、陳腐で、下手をすればださい紋切型になってしまうかもしれないようなところから生じているようだし、おまけにそのイメージはなんだか弱々しくて頼りない。でも、それだからこそ、この物語には美しさがあるし、切なさがある。俺はそんな風にこの小説を読んだ。