記憶についての、そしてイマージュについての小説。これだけ繊細で微妙な、しかも派手さのない作品が、フランスでは150万部のベストセラーになったっていうのはちょっと驚きだ。マルグリット・デュラスは、自身の少女時代、仏領インドシナでの中国人青年との出逢いの体験を、なによりそのイマージュを、小説として再構築してみせる。
少女だったデュラスの、家庭環境をはじめとするハードな状況を脱しようと求めるきもちが、中国人青年との性的関係とふしぎにリンクする。その流れのなかで、彼女はあまりにも早く少女期を過ぎ、女性としてある種の成熟を迎えてしまうのだった…。なんていうのがまあ、この小説のひとつの解釈としてあるだろう。ただ、デュラスは自身の魅力や、まだ幼い自分が中国人青年をどうしようもないくらいに魅了している、っていうその状況にどこか酔っているようにも見える。さまざまな要素が絡まりあった複雑な心象に、それでいて実は単純な状況に、酔って、溺れているみたいに。その陶酔の感覚は、きっと誰かを強くおもうきもちにはいつでも付きものなもので、だからこれはシンプルな愛の物語だということもできるだろう。もっとも、デュラスのきもちは作品のシリアスさを減じるのではなく、むしろ一回性としての絶対的な感じ、荘重な感じを高めていく方向に作用している。
デュラスは自身の持つイマージュに基づいて文を紡いでいくのだけど、この内容をここまでかっこよく、“芸術的”に描くことができるのは、もうひとえにデュラスの技術によるものなんじゃないかなー、なんていう風におもった。技術っていうのは、もちろん単に文章を書くテクニックってことじゃなくて、小説を作り上げる上での感性とか思考とかまあそういうものを全部含んでいるのだろうけど、どうにも技巧が勝ちすぎているような印象は抜けきらなくて、俺は一歩離れて見るようなきぶんで読んでいた。
ただ、この文章はもうとにかくすばらしいとしか言いようがない。どこでもかっこいいんだけど、たとえばデュラスの母について書いている、こんなところ。このグルーヴ感!
毎日のことだった。そうだと、いまわたしは確信している。あれはきっと激烈に押しこんでくるものだったのだ。毎日、あるときになると、この絶望が姿をあらわした。それにつづいて、もう二進も三進も行かないという不可能性、あるいは眠る、ときには何でもない、ときには反対に家を買ってしまったり、引越しを始めたり、ときにはまた、あの気分、ただあの気分、あの意気消沈だけ、あるいはときには女王さながらに頼まれることは何でも、申し出があれば何でも、小湖(プチ・ラック)に面したあの家がそうだ、理由なんかこれっぱかしもない、父がすでに死に瀕しているというのに、あるいは縁の平らなあの帽子、娘があんなに欲しがるんだもの、あの金ラメの靴も同様。あるいは何もない、あるいは眠る、死ぬ。(p.25,26)
絶望とか死とか、あるいは愛とか、そういうものを自身のイメージに照らして描くのは、それをまともな形に作り上げるのは、本当に難しい作業だとおもう。なんていうか、抽象的で、嘘っぽくなりやすいものだから。デュラスのこの小説も、どこかナルシスティックな匂いは感じられるのだけど、でもとことんまで突き詰められたそれはやはりうつくしい。