書いていて気づいたけど、こないだ見た、『サイボーグでも大丈夫』にわりと近しいものがあるとおもう、この映画。どっちもおしゃれちっくな外見だけど、物語にはけっこうな毒、ハードな設定が含まれていて、でもその毒はファンタジー風味の見せ方によって緩和され、迫り来るようなものではなくなっている。
この物語を、たとえば現実に照らし合わせてかんがえてみれば、主人公は夢と現実の区別もろくにつかない、妄想気味のおかしなやつ、ってことになるのかもしれない。そして、結局彼はほとんど変化することもないまま、いまいち後味のよくないエンディングに至るだけの話だ、ということになるのかもしれない。けど、俺はおもうんだけど、芸術のフィールドにおいて、いちばんに重要なものって、強力な個別性なんじゃないだろうか。社会やそのなかでの人間性あっての個人、というだけではない個人を語ること。普遍、というレベルとは異なるやり方で個人を描いてみること。そういうところに芸術の大事なちからがあるんじゃないかと感じる。そして、この作品には、個別性をそのまま個別性として受けいれ、肯定する視線があるようにおもえて、そこがぐっとくるのかなー、とおもう。それはもちろん、社会から見れば、単に「ちょっと変でモテない彼って、かわいそう」というだけのことかもしれないのだけれど。
この映画では、主人公はさいごまで現実と妄想がごっちゃになったままだ。けれど、そんな彼の姿を(毒を含みつつも)温かな視線でもって、ポップに描きだしている。俺はこういう、現実は、生々しくて痛々しくて、ハードでグロテスクでもあるけど、それでも何とか前向きさをもってそれを描いていこう、という姿勢、肯定していこうとする姿勢にすごく惹かれるんだなー、と改めておもいました。