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『かいじゅうたちのいるところ』

吉祥寺バウスシアターにて。昨年末からサントラが評判だったし、予告編の印象でも、ぜったい外さないだろこれ!っておもっていたくらいなのだけど、うーん、期待値の高さが災いしたのもあってか、俺にはいまひとつ響いてこない作品だった。たしかにかいじゅうたちの造形は素晴らしいし、主人公のマックス君は子供ならではのむちゃくちゃな思考回路で動きまくりかつかわいい、って線をしっかり突いてきているし、クライマックスのシーンなんかはちょっと感動的でもあった(かいじゅうの表情とか、ほんとたまらない)。完成度が高いし、モチーフも明確でよく練られた作品だとおもう。

けれど、俺が見ている間ずっとおもっていたのは、こんなに身勝手なことしかしていないくせにほとんど何の留保もなしに愛されている主人公のことなんてぜんぜん好きになれないし、共感することもできないなーってことだった。「ぼく、なにもかもむちゃくちゃにしちゃった…だから、もう家に帰るね」って何なんだよそれは!?とかおもっちゃったし…。自分の無力さ、他者と関わっていくことの難しさを自覚したからこその台詞なのだろうけど、子供なりにもっと知恵を絞っていろいろ試みたり苦労したりするところが俺は見てみたかった。

…なんて感想になってしまうのは、ファンタジーとは、物語とは、現実をサバイヴするための装置であるべきだ、って俺が決めつけているからなのかもしれない。現実というのはいつだって厳しく、冷酷なものだ。作中でも描かれているように、他者のかんがえていることなんて大抵はわからないし、自分の本当の気持ちすらよくわからないことだってある。よかれとおもった行為が他の誰かを傷つけてしまうことだって、そう珍しいことじゃない。そんな厳しさをこの作品は正しく、そして切なく描いてみせているけれど、でも、俺はそのもう一歩先の話をして欲しいんだよ、とおもったのだった。

つまり、マックス君は最終的に、夢はそう簡単には叶わない、無力な子供には問題を解決する力なんてない、って現実を冷静に認め、日常へと帰っていくことになるわけだけど、そんなことを認識するためにわざわざファンタジーを用いる必要があるだろうか?っておもうのだ。現実という壁はいつだって人の前に立ちはだかっているものだし、人はそんな現実をいつしか受け入れ、勝手にオトナになっていってしまうものだ。そんないかんともしがたい現実ってやつををなんとか乗り越えようと試みたり、迂回してみようともがいてみるときにこそファンタジーや物語が生み出され、そしてそれは現実との関わりのなかで予想もしなかったような輝きを持ったりすることだってあるはず…ってかんがえからしてみると、この作品の結末にはなんだか納得がいかないし、もうちょっと他に描きようがあったんじゃないだろうか、って気がしてしまう。なんていうか、マックス君の想像力が生み出した世界の、ファンタジーの持ち得る効用をもっと生かすことはできなかったのかな、なんておもってしまうのだ。