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『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』/モフセン・マフマルバフ

イランの映画監督、モフセン・マフマルバフのスピーチ、レポート、公開書簡の3つをまとめたもの。アフガニスタンの近代史、生活、宗教などが概略的に説明され、さらに、アフガニスタンの国家としての収入、麻薬の取引量、死者の数などについても、統計を用いて具体的に語られている。けれど、この本においてもっとも切実に、何度も語られるのは、「なぜ、アフガニスタンにはイメージ(映像)がないのか?」という問いだ。イメージを奪われ、あらゆる意味で顔を失った、アフガニスタンという国家。この世界では、イメージを持たないものには誰も関心を抱くことはない。この無関心に対して、マフマルバフは冷静なことばで、しかし激しく抵抗する。

映像というイメージが、いま、この世界でもつ力はとても大きなものだ。当時者でない人、どこかほかの場所でニュースとしてなにかを知る人にとって、その対象は、映像化されることによってはじめて現実のものと認識されるようになる。そのようなイメージは、距離や時間をこえて人に訴えるちからを持ってはいるが、もちろん、映像は常に、必然的になんらかの視点を内包しているものだ。また、映像は、現実をうつしたコピーではあるが、完全な客観性が担保されるものですらなく、現実についてのひとつの解釈にすぎない。しかし、ともかく、アフガニスタンについて語られる際のイメージが、破壊され、崩れ落ちた仏像であったということであれば、つまりそれが世界のアフガニスタンに対する解釈だったということだ。

仏像の破壊についてはたくさんの報道がされ、国際的に非難がなされるのに、人々の飢餓がほとんど語られないのはどういうわけか。マフマルバフは憤る。アフガニスタンを見ているはずなのに、なぜこれほどまでに深刻な事態に、誰も関心を払わないのか。仏像の破壊というニュースがあるのに、アフガニスタンの現状に対して、世界はあまりに無関心にすぎるのではないか。

俺はおもったのだけど、問題は、映像というのは、なにかを理解するためにはそれほど役に立たない、ということなんじゃないだろうか。もちろん、人は、自分がじっさいに目にしたことを思考の基盤にしている。しかし、それはおそらく、人間のかんがえかたというのが、もともと目の前の状況に対処するために発展してきたものだからで、単にあるイメージだけを記憶していたところで、それは他者の苦しみに接近することには結びつきにくいのではないか。人になにかを理解させ、行動を起こさせるのは、自分が目にした自分にとっての現実のなかで、自分を動かした感情のちからだけだ。映像で自分のしらない世界を見せられたところで、その世界は、たんなるフィクションでしかない。映像にプラスされるべきものは、そのイメージを自分の世界とダイレクトに繋げるため、そして他者の痛みに共感するための想像力であり、想像力を育て上げるための、ちからをもったことばなのではないか。そして、この本におさめられたマフマルバフのことばには、そういったちからが、少なからずあるんじゃないか。そんな気がしました。