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『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』/渋谷望(その3)

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

終章「<生>が労働になるとき」は、全体のまとめ的な内容の一章だ。新自由主義的な言説、新自由主義的なコモンセンスが醸成されるに至った理由と、それらを打破するための方策について、改めて考察がなされている。

「自己実現」、「労働の喜び」、「やりがい」といったことを強調する言説が後を絶たないのはなぜだろうか。こうした言説は言う。賃金は低くても、やりがいのある仕事なら満足すべきだ、と。だが真に魅力的でやりがいのある労働であれば、外部からのどんな正当化も不要のはずである。また内在的な「労働の喜び」を有しているなら、そのことを褒めちぎる言説を待つまでもなく、誰かが率先してやっているはずである。とすれば、これらの冗長な言説は、労働倫理を教え込むというより、<怠惰>への道徳的攻撃を可能にするという理由で採用されていることがわかる。結局それは<働かざる者>=<遊ぶ者>の自己価値化への<反動>、すなわち反感(ルサンチマン)に基いており、この自己価値化によって生産された価値を再び剥奪するのである。(p.234,235)

ニーチェ『道徳の系譜』の「グートとベーゼ」的な話だ。渋谷は、上記のような理解を前提に、「他者の承認を必要としない純然たる自己肯定」、「自己のなし得ることの果てまで進んでいく力」といったものを発見することこそが、ネオリベラリズムの依拠する他律的で自己検閲的な主体――そこでは、勤勉を美徳とする労働倫理が大勢を占め、市場や他者からの評価が何よりも優先される――からの離脱への道だろう、と述べる。そして、そういった力が培養され得るのは、ネオリベラリズム支配から逸脱した場所、すなわち他者のまなざしが遮られたアンダーグラウンドにおいてであり、そこにこそ、オーバーグラウンドで自明視されている価値観や尺度から離れた新たなゲームを生み出す萌芽があるだろう、と言う。

まあ、ここまでは理解できる。ニヒリズムの徹底から肯定性を見出し、既存のシステムに対する抵抗の可能性を見出す、というわけで、これは理屈の上では、たしかにそうだよな、って納得できるような内容だ。ただ、このアンダーグラウンドにおける自己肯定的な主体の例として渋谷が挙げているのが、アメリカのヒップホップやジャマイカのラスタ/レゲエで。どうもこの部分が俺にはいまいちぴんとこなかった。抑圧された状況にある彼ら、怠惰と見なされることすらある彼らこそが、じつはこの社会に蔓延する価値観から離れたところで自己肯定する力を持ち得ているのだ…!と力強く述べられているのだけど、うーん、そっか、そうなのかー、としか感じられなくて。まあ俺がこの辺りのことに関する知識も思い入れも持っていないことが原因なのだろうけれど、もうちょっと、日本での例を挙げるとかしてくれた方が説得力があったのでは…とおもったのだった。