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『貧しき人びと』/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(その2)

貧しき人びと (新潮文庫)

貧しき人びと (新潮文庫)

マカールの発話のスタイル――他者の視線を内面化し、先取りした他者の言葉に絶えず反発しながら自分語りをする――や、その病的なまでの熱烈さというやつは、まさしくドストエフスキー独特のものだけれど、マカールというキャラクターの設定自体は、ゴーゴリ「外套」の主人公、アカーキー・アカーキエヴィチをベースとし、パロディ化したものだと言っていいだろう。(ふたりは、官位も仕事内容もまったく同じだし、生活水準も似たようなもの。アカーキーには、マカールのように強烈な自我が与えられていない、というのがいちばん大きな違いだろうか。)

ゴーゴリは、「外套」において、ひたすら即物的な描写を連ねていくことでプロットの悲劇性を削ぎ落とし、それを乾いた笑いに変えてしまっていた。まあなにしろゴーゴリというやつは、自分の創り出した作中人物に対して、まるで容赦のない男なんである。ドストエフスキーは、作中でそんな「外套」をマカールに読ませ、憤らせてみせる。

それに、いったいなんのためにこんなものを書くのでしょうか?こんなことがなんの必要があるのです?読者のだれかが代りにこのわたしに外套を作ってくれるとでもいうのですか?新しい靴でも買ってくれるというのですか?とんでもありません、ワーレンカ、さっと読みとばして、つづきを見たいというのが落ちですよ。(p.132)

あの連中も、あの失敬な当てつけ専門の三文文士どもも方々歩きまわって、わたしどもが足をちゃんと敷石について歩いているか、爪先だけで歩いているか、などと観察しているんですよ。そして家に帰ってから、某省に勤める九等官某は靴の先から足の指がむき出しになっており、肘のところも破けている――などとこまごま書きとめて、そんなくだらない代物を出版しているのです……わたしの肘が破れていたって、それがどうしたっていうんだ?いや、こんな乱暴な言葉をつかって失礼ですが、ワーレンカ、貧乏人にもこんなことについては、きみに処女の羞恥心があると同じように、羞恥心があるのだ、ということを申し上げておきましょう。だって、まさかきみは、乱暴な言葉を使って失礼ですが、衆人環視のなかで裸になんかなりはしないでしょう。それとおんなじことですよ。貧乏人だって、あいつの家庭生活はどんなだろうなどと、自分の小部屋を覗きこまれたくはないのですよ。(p.148,149)

かわいそうなくらいに純粋で素朴なマカール。「外套」を読んでも、まさに自分のことが書かれているとしかおもえないのだ(自分の原型なのだから当然だ!)。読者としても、そんなマカールにちょっぴり同情してしまいそうになる。

しかし、本作は、単に貧しき人々にひたすら同情的なだけの、センチメンタルな悲恋の物語というわけではない。マカールとワルワーラの関係を少していねいに見てみれば、それは明らかだ。

マカールは日々の暮らしすら困難を極める生活をしているのにも関わらず、ワルワーラへの恋心で見境をなくし、あちこちに借金をつくりながら彼女にお菓子やら花やらを贈り続ける。ワルワーラさんワルワーラさん、って、もう彼女に夢中でしょうがないのだ。前回のエントリで引用したような長尺かつ暴走気味な手紙を、自分よりだいぶ年下の女の子に送り続ける彼は、もうほとんどワルワーラのことを神格化してしまっているようですらある。

けれど、ワルワーラはもともとマカールに対して恋心を抱いてはいないようだし(彼女は、あくまでも"庇護される者"としての立場を貫こうとしているように見える)、マカールの高すぎるテンション、むちゃ過ぎる金の遣い方に若干引き気味になっていることも少なくない。

あなたはまるっきりお金なんかお持ちではなかったのに、ふとしたことからあたくしが困っていることをお聞きになり、それに心を動かされて、月給を前借りしてまであたくしを助けようという気を起こされ、あたくしが病気になったときにはご自分の服までお売りになってしまったのです。今ではそれがすっかりわかってしまいましたので、あたくしはそれをどう受取ったものか、どう考えたらよいのか、今なおわからないくらい苦しい立場においこまれました。ああ!マカールさん!あなたは同情の気持と肉親としての愛情に動かされてなさった、あの最初のお恵みだけで止めておいて、その後の無駄使いをなさってはいけなかったのです。マカールさん、あなたはあたくしたちふたりの友情を裏切りなさったのです。だって、あなたはあたくしに打明けてくださらなかったんですもの。(p.135)

あなたはあたくしがあなたの不幸の原因となったことを、あたくしに悟られまいと気を使ってくださいましたが、今度はご自分の行いで二倍の苦しみをあたくしに与えてくださったわけですのよ。ねえ、マカールさん、あたくしは今度のことではほんとにびっくりいたしました。ああ、あたくしの大切な方!不幸は伝染病みたいなものですわね。不幸な者や貧しい人たちはお互いに避けあって、もうこれ以上伝染させないようにしなければなりません。あたくしはあなたが以前のつつましい孤独の生活では一度も経験なさったことのないほどの不幸をあなたに持ってきたのでございます。それを思うと、あたくしは苦しくて、死にそうですわ。(p.137)

ねえ、さすがにちょっと重すぎますわマカールさん、ってところだろうか。

そんなワルワーラについて、清水正は、『ドストエフスキー『白痴』の世界』で、こんなことを書いていた。

ワルワーラは女街のアンナ・フョードロヴナや淫蕩な地主貴族ブイコフに一方的に屈服したのではない。彼女は自分の過去の「汚辱をそそぎ」「名誉を取り戻す」ために(ということは、ワルワーラがすでにブイコフと関係があったということであって、彼女を処女と見做した評論家こそいい面の皮である)、また「貧困と欠乏と不幸」から逃れるために正式にブイコフの結婚申し込みを受けているのである。ワルワーラの貧困ひとつ取ってみても、よくよく頭を冷やして考えてみなければならないのだ、何しろ彼女は貧困であるにも拘らず女中フェードラと一緒に暮らしていたのであるから。以上のことから彼女はブイコフ一派に屈したというよりは、自分の内なる<ブイコフ>(虚栄・名誉・贅沢、確固たる生活の保証等)に屈したといえる。(『ドストエフスキー『白痴』の世界』/清水正 鳥影社 p.94,95)

ワルワーラと地主貴族ブイコフのあいだに「関係があった」かどうかは、作中には明確な記述がないので、「いい面の皮である」ってのはいくらなんでも駆け足過ぎ、言い過ぎだとおもうけれど、後半部分については俺もおおむね賛成だ。ワルワーラはブイコフに連れ去られたのではない。彼女は、彼女の意志でマカールを捨て、ブイコフを選び取っているのだ。

まあそういうわけで、彼女の選択は、"貧しさが愛するふたりを引き裂く、悲劇の結末"と見ることができるのと同時に、"なんだかんだで打算的・実際的な女による、現実的な判断"であると解釈することもできる。もっとも、打算的・実際的にならざるを得ない原因というのはやはり貧しさにあるわけで、彼女の心情にはこれら双方のニュアンスが含まれている、くらいの言い方がより正確なところかもしれない(たとえば、彼女自身としては打算的なつもりなど少しもないのかもしれない)。マカールの自意識とその発露の形もややこしかったけれど、ワルワーラの気持ちも、またややこしい。テーマ、プロット、形式のどの切り口からでも多層的な読みが可能になっているのがドストエフスキー作品の特徴だけれど、その特徴はこのデビュー作からじゅうぶんに発揮されているということができるだろう。

ドストエフスキー『白痴』の世界

ドストエフスキー『白痴』の世界